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北陸文化

【満州に残されて 中国の小兵士として生きた男】5 帰国

軍離れて望郷 姉は残る決断

 中国共産党の軍で軍医の助手を務めていた小関昌司さん(84)=石川県白山市=は一九五〇年の朝鮮戦争時で義勇軍に志願する。「抗美援朝(こうびえんちょう)」運動である。やがて中国人以外は戦場から引き揚げさせられ、地方の病院に転属。長沙第六市立病院勤務となって除隊した。麻酔担当で手術室に勤務したが、野戦病院での経験は通用しないので猛勉強した。

 五二年になって北京放送から、残留日本人三万人について日本が配船すれば送還するとの放送が流れた。「それまでなかった望郷の念が、軍隊を離れると急に湧いてきた」。多くの日本人が武漢に集まり帰国した。しかし小関さんは新民主主義青年団に入っていたため帰国保留に。奉天(現・瀋陽)に向かい瀋陽医学院(元南満医科大学)の図書館で勤務。この時に初めて日本語を学ぶ機会を得た。医書を書き写しながら、忘れていた日本語をむさぼるように覚えたという。

 五五年の春節、一週間の休暇を利用して瀋陽から三日三晩かけ、長沙で家庭を持つ姉みよ子さんに会いに行った。以前、行軍した道のり。車窓から見る風景は懐かしかった。とりわけ以前、軍の船に乗って渡った揚子江に立派な橋がかかり、車と列車が通れる二段構造になっているのに驚いた。帰国が許可されたことを告げ、姉との別れを惜しむ。姉から「私は両親の眠る中国の土になる。身代わりだと思って、日本の墓に埋めるように」と、篆刻(てんこく)印を渡された。

 瀋陽では図書館の同僚から「一路平安」の旗と激励を受けた。六月、帰国者が天津に集結。最後の引き上げ船「白山丸」が二百二世帯、五百七十九人、遺骨二柱を乗せて舞鶴に帰国した。波止場には警察官が六百人も来ていた。早朝四時に着いたが、すぐに上陸はさせてくれない。午後四時過ぎになってようやく日本の土を踏んだ。

 兄健太郎さんが出迎えに来ていたはずだったが、満洲に渡る前に会ったきりで顔もわからない。途方に暮れていたところスピーカーで名が呼び出された。目の前に立っていたその人が兄だった。(寄稿、北陸満友会会員、ライター・早瀬徹=石川県能美市)

 

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