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北陸文化

【満州に残されて 中国の小兵士として生きた男】4 行軍

物資なくとも ひたすら歩く

 国民党軍と戦う東北民主連軍に入った小関昌司さん(84)=石川県白山市=は、やがて日本人軍医の助手となり、麻酔の担当で忙しくなる。麻酔と言っても、少年兵が野戦病院のテントが張られた手術室でエーテルを使用するだけ。「赤痢に罹(かか)っても、薬はニンニクを焼いて食べさすか、ニンニクを擦って薄めたもので浣腸(かんちょう)するしかない」。国民党軍兵士も看護し、東北民主連軍の兵士となって退院していったという。

 患者と接する中で、小関さん自身、天然痘、マラリアなどあらゆる病気に罹(かか)ったという。食べ物はメリケン粉、コーリャン、トウモロコシの粉を蒸して焼いたものが中心。旧正月にはご馳走(ちそう)が出た。といっても自分たちが作り、凍らせておいたギョーザだ。

 行軍の寝泊まりは民家の軒下か、野でアンペラの上で。行く先々では、寺院が病院に早変わりした。十月からは雪が散らつき、防寒帽、綿入れ服、防寒外套(がいとう)を着るのだが、五月に入ると夏服に着替える。柳絮(りゅうじょ)(ヤナギの種)の白い綿毛が飛ぶ頃だ。休戦が時折あって、その時は相互批判、自己批判会が開かれ、内科と外科の講義、政治委員の講義を受けた。選ばれた兵士の功労者は大功、中功、小功として表彰された。

 一九四九年一月、林彪(りんぴょう)の率いる東北民主連軍は解放軍第四野戦軍として編成される。小関さんたちは山海関を経て、北京郊外の張家口に野戦病院を築いた。といってもテントを張り、カーバイドのガス灯の下で一晩に三、四人の手術を行うだけ。ほとんどが銃弾の傷でなく、凍傷の患者だった。少ない麻酔で手足を切断するだけ。麻酔が覚める頃、「脚がなくなった」と泣き叫ぶ患者の声が、今でも小関さんの耳に残る。解放軍第四野戦軍による北京の無血開城にも立ちあった。

 その後、一年かけて夜間行軍で北京から徐州、武漢、長沙へと行軍。「国民党軍が退却する時、決まって鉄道を破壊していくので、私たちはひたすら歩くしかなかった。何万もの兵士が行進するのだから、道はローラーをかけたように踏み固められ、沿線には草一本生えていなかった。道は人が和した力そのもののような気がしたものだった」(寄稿、北陸満友会会員、ライター・早瀬徹=石川県能美市)

 

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