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北陸文化

【満州に残されて 中国の小兵士として生きた男】3 衛生兵に

付属衛生学校の仲間と。下段右端が小関正司さん(当時16歳)。上段左端は姉のみよ子さん

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懸命に働き 小隊長昇格

 東北民主連軍に入り国民党軍を相手に戦った小関昌司さん(84)=石川県白山市。一九四七(昭和二十二)年の晩秋には牡丹江から佳木斯(ジャムス)に移った。内戦の拡大に伴い、軍に求められたのが衛生兵だった。小関さんはその付属衛生学校に入る。戦闘の合間に解剖や救急医療、外科、内科を習い、政治的な勉強も受けた。血まみれの兵の肩から銃弾を取り出し、縫い合わせる狩場正敏軍医も必死だったという。

 「青い顔をして立ちすくむ私は本当にまだ子どもだった。モタモタするんじゃないとしかられながら走り回って手伝った。輸血が必要になると、自分の血液型がO型だったので、傷付いた兵に輸血し役立ててもらった」

 国民党軍は都市部で強かった。小関さんの軍はやがて佳木斯(ジャムス)から内モンゴルを経て北京への長旅に出る。行軍では「三大規律八項注意」を歌いながら歩いた。「紅軍軍人は心得よ、第一に行動は一切指揮に従え、一糸乱れぬ行動が勝利を生む。第二に民衆の物を盗むな、民衆は我らを援護し歓喜で迎えるのだから」。歌いながら、丘や谷の草原や砂漠を越えて歩き続けた。三人で「組」、九人で「排」。小関さんは十代半ばの少年ながら、排の長に昇格し、小隊長になった。

 「日本人だからといじめを受けることはなかったか」と問うと、小関さんは「仲間と一丸になって戦うからだろう、いじめられることはなかった」と笑う。階級が上だからといって威張る者もいなかった。「皆と一緒に『国民党軍に負けてたまるか』という気持ちだった」と頬を緩めた。

 真面目な性格の小関さん。もう自分の行き場所がどこにもないと思っていたのかもしれない。もう日本は遠い、夢にだけ出てくる国だった。それゆえ、懸命にやることだけが自分に残された道と考えた。食うために軍に入った動機が体に染み込んでいたのではないか。部隊が全員無事に南下すると、「満員南下」として表彰された。小関さんは「小兵士」として、よく引き合いに出されて褒められたという。

 行く先々で民を豪農から解放し土地を与え、政治委員を置いて、その人が屯(村)を改革していった。東北民主連軍が国民党軍に屈しないで、勢力を拡大していったのは、そうした農村部での支持が大きかったからだった。 (寄稿、北陸満友会会員、ライター・早瀬徹=石川県能美市)

 

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