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北陸文化

【満州に残されて 中国の小兵士として生きた男】2 共産党の軍に

小関昌司さんの手元に残る東北民主連軍の戦友たちと撮影した集合写真=1948(昭和23)年ごろ

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姉と共に衣食住を確保

 一九四六年の秋も深まる頃、小関昌司さん(84)=石川県白山市在住=は姉と二人で預けられていた張さんの家から逃げた。牡丹江まで二日間かかり、コークスを拾って売り、また饅頭(まんじゅう)売りをして、その日暮らしで生きる。腹をすかして地べたに横になっていた時、民族幹事の室星と名乗る人から、「八路軍に入らないか。腹いっぱい食わしてやるぞ」と言われる。衣食住が保証されるということだったので、姉と二人ですぐに入隊した。

 正確には東北民主連軍といい、国民党軍との戦いが熾烈(しれつ)を極めていた。「国民党軍はアメリカ軍の払い下げの最新兵器だったが、私たちは旧関東軍から得た三八式歩兵銃と手榴弾(しゅりゅうだん)のみだった。よく戦ったものと思う」。小さな兵士にとっては、大きな三八式歩兵銃を抱えての戦場だった。

 幹部付き添いの通信兵となり、九州熊本出身の狩場正敏軍医の小間使いで掃除、洗濯、布団の上げ下げなど、彼の身辺の世話一切を引き受ける。軍では総員に酒、たばこが支給され、子どもながら一人前にたばこを吸っていたところ、狩場さんから「きさま、日本人だろう。日本人は二十歳にならないと酒もたばこもだめだ、生意気するな」と最初で最後のビンタをくらう。どれだけ中国語に達者になろうとも、日本人としての誇りを持てということだった。

 「狩場さんは軍医学校を出て、関東軍に配属されたばかりだった。東北民主連軍は医者や技師を求めていたので、帰国が許されなかった」。姉は看護見習付添婦になった。「私は子供のために、軍服がなく、袖と裾を切り落とし、まるで奴(やっこ)さんのようだった」と小関さんは笑う。

 ソ連軍が占領していた旧関東軍の陸軍病院は東北民主連軍がもらい受けていた。この病院で父健次が息を引き取ったことを偶然に聞かされた。話してくれたのは、同じ山形県の白鷹から来ていた元関東軍の衛生兵だった。父は連れ去られてから無理がたたって病気にかかってしまったのだった。これで両親ともいなくなり、姉と二人きりの孤児になってしまった。

 その後、狩場軍医とは日本で一九九九(平成十一)年に再会を果たすことになる。

  (寄稿、北陸満友会会員、ライター・早瀬徹=石川県能美市在住)

 

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