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北陸文化

【音楽】「海ゆかば」の実像(下) 信時の業績 近年見直し

日本のクラシック音楽の草分けとして文化功労者となり笑顔を見せる信時潔=1963年、東京都国分寺市の自宅で

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 大伴家持が詠んだ大伴氏の家訓「海ゆかば」にメロディーを付けたのが東京音楽学校(現東京芸術大音楽学部)元教授の信時潔。ラジオ放送用にNHKの委嘱を受け一九三七(昭和十二)年に作曲。製薬会社がスポンサーとなり、唱歌として楽譜が全国の小学校に配られた。

 信時はクリスチャンで幼少時から賛美歌に親しみ、同校助教授の時ドイツに留学し作曲を学んだ。J・S・バッハのコラール(賛美歌の一種)をこよなく愛した。コラールは教会に集う一般信者向けに作られ、歌いやすさが特長。「海ゆかば」もコラール風のシンプルながら端正な構成と荘重な響きで芸術性が高く親しみやすい。

 当時の日本の歌は「ドレミ」の十二音階のうち、四番目の「ファ」と七番目の「シ」を抜いた「ヨナ抜き音階」。しかも付点八分音符と十六分音符との三対一のリズムを多用した「ピョンコ節」が圧倒的に多かった。童謡「うさぎとかめ」を口ずさんでみてほしい。

 そんな時代に「海ゆかば」は人々の耳に、さぞ新鮮に聞こえたであろう。唱歌から国民歌、軍の鎮魂歌へと変貌してゆく。

◎ ◎

 信時は戦後、校歌や社歌などを除き、ほとんど曲を作らなかった。亡くなるまでに歌曲、合唱曲などわずか数曲である。「海ゆかば」が軍国主義に利用されたことを恥じたからだといわれる。

 戦後「海ゆかば」は音楽評論家たちの厳しい批判にさらされた。「戦勝国的な物差しでいえばA級戦犯もの」のほか「万葉集から“防人の歌”を持って来て忠君愛国の歌にした」という的外れの非難もあった。

 混同されやすいのは信時の「海ゆかば」のほかに、別の「海行かば」があったことだ。宮内庁雅楽部の楽人東儀季芳が一八八〇(明治十三)年に作曲。陸海軍の儀式で用いられた正真正銘の軍歌である。軍歌は本来、軍に正式に認められたもの。今軍歌といわれているものの大多数は戦時歌謡か兵隊ソングである。

 東儀の作品は信時のものとは対照的に雅楽の趣に満ちている。「守るも攻むるも黒鉄の…」で知られる「軍艦行進曲」の中間部(トリオ)の主旋律になっており、聞き覚えがある人は多いと思う。

 歌詞は信時の末尾が「顧みはせじ」とあるのに対し、東儀のは「のどには死なじ(無事では死なない)」である。出典が大伴家持の長歌(万葉集)か、聖武天皇の詔書(続日本紀)かの違いである。

◎ ◎

 近年、ようやく信時の業績が見直され始めている。没後五十年にあたる二〇一五年以降は各地で演奏会が開かれ、交声曲「海道東征」を中心に、歌曲集「沙羅」、ピアノ組曲「木の葉集」などが演奏されている。「海ゆかば」についても合唱、弦楽四重奏、パイプオルガンなど、戦前から戦後の様々な録音を集めたCD「海ゆかばのすべて」が販売された。

 時代に翻弄(ほんろう)された信時と「海ゆかば」。音楽家の戦争責任を問う声は今もある。しかし歌の歌詞と曲の成立過程を見る時、時代の呪縛から解き放ち、信時の音楽そのものとして聴いてもよいのではないだろうか。「海ゆかば」が唱歌(日本歌曲)の名作として、家持を生んだ古代の名門大伴氏の歌として愛唱されることを願いたい。

  (名古屋出版部・小松泰静)

 信時潔(のぶとき・きよし) 1887(明治20)年大阪市生まれ、東京音楽学校教授として作曲家を育てたほか多くの歌曲、合唱曲を作った。北陸では金沢大校歌、石川県立金沢桜丘高校歌、羽咋工業高校歌なども作曲した。1965(昭和40)年没。

 代表曲の交声曲「海道東征」(1940年)は、北原白秋の詩に曲を付けた。交声曲はカンタータのことで、管弦楽、独唱、重唱、合唱で構成。日本神話で、天地開闢(てんちかいびゃく)から神武天皇の即位までの叙事詩になっている。

 

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