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北陸文化

【音楽】「海ゆかば」の実像(上) 大伴氏の家訓時代に翻弄

越中国庁があったとされる勝興寺の境内には「海ゆかば」の歌碑がある=富山県高岡市古国府で

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 今年は万葉歌人の大伴家持が誕生して千三百年(数え年)にあたる。第二次大戦中、ほとんどの日本人が耳にした「海ゆかば」の歌詞は、家持が越中国守在任中に詠んだ長歌の一節。作曲した信時潔は戦後、軍国主義に同調したとして冷遇された。時代に翻弄(ほんろう)され、忘れ去られつつある名曲の実像を二回にわたり探る。 (名古屋出版部・小松泰静)

戦時中は“準国歌”扱い

戦後は一転封印される

 「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」

 戦時中、陸海軍部隊の玉砕の際などに、鎮魂歌としてラジオで放送され、人々の涙を誘った「海ゆかば」。今や、そのラジオ放送を聴いた人もほとんどが鬼籍に入り、歌える人も少ない。

 戦時中、この歌は「君が代」に次ぐ第二国歌、準国歌なみの扱いを受け、国民に親しまれた。戦後、「天皇の側でこそ死のう。わが身を振り向くまい」という意味が災いして、軍国主義を助長したとして長く封印されてきた。

 この歌詞が、万葉歌人大伴家持が越中国守時代に作った長歌の一節であり、大伴氏の言立て(誓い)であることはあまり知られていない。大伴氏の家訓と言えるだろう。

 長歌は「陸奥の国より金を出せる詔書を賀く歌」(天平感宝元年五月十二日)。大仏造営に必要な金が産出されたことに喜んだ聖武天皇が、詔書の中で大伴氏の家訓を取り上げ、氏の先祖代々の功績をたたえたことに家持が感激し詠んだ。

 長歌の中で家持も遠い祖先に思いをはせ、家訓を取り上げ歌う。「大伴氏は勇敢な男の清らかな名を今に伝える一族だ。家訓を守り天皇に仕えるのが役目だ。手に弓を、腰に剣を帯びて朝夕に天皇をお守りするのは大伴氏をおいて他にいない」

勝興寺に向かう参道に立つ大伴家持の像

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 飛鳥時代以前、古代豪族は家柄に応じて職務を分担し、天皇家を支えてきた。蘇我氏は財政、物部氏は司法・警察、阿倍氏は外交、中臣氏は祭祀(さいし)などである。大伴氏は天皇家直属の重臣として“近衛兵”を率いて天皇家を守った。武門の家だった。

 「大君の辺にこそ死なめ」「みかどの守り、われをおきて人はあらじ」。大伴氏の遠い先祖から受け継いだ、この“血の信念”を家持は終生持ち続ける。

 越中国守の任を終え、奈良の都に帰った家持を待ち受けていたのは、家持はじめ大伴氏の庇護(ひご)者だった左大臣橘諸兄と光明皇太后のおい藤原仲麻呂との激しい権力闘争だった。仲麻呂の圧迫を受けた諸兄は引退し、まもなく死去。その子奈良麻呂が仲麻呂打倒を叫びクーデターを企図する。

 しかし計画は事前に露見。奈良麻呂はじめ、家持越中時代以来の歌友大伴池主、唐僧鑑真を日本に連れ帰った気骨の武人大伴古麻呂らは拷問の末、獄死する。

 この前年、不穏な空気を察知した家持は「族を喩す歌」を作り、一族の軽挙妄動を戒めている。「大伴氏は代々の天皇に誠心誠意仕えてきた。浅はかな考えで祖先の名を絶やしてはいけない」

 家持が国守として執務した越中国庁は、富山県高岡市伏木古国府の勝興寺のある場所にあったとされる。平成の大修理が続くその境内に「海ゆかば」の歌碑が立っている。家持が歌を詠んだ国守館は、寺から程近い高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)にあったと伝えられている。

 ※(下)は22日に掲載します。

 

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