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北陸文化

【本谷のこだわり学 重伝建の巻】 萩市堀内地区(山口県萩市)

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門や土塀残る城下町らしさ

 旅が好きでこれまで日本各地に足を運びましたが、山口県萩市を訪問するのは今回が最初です。

 城下町としての萩の歴史は、関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元が慶長九(一六〇四)年から指月山(しづきやま)の麓に城を築き、城の東側に町割りを行ったことから始まります。

 萩城は慶長十三(一六〇八)年に完成しましたが、城下町としての規模が確立したのは十八世紀初めの頃と考えられ、城下町として約二百六十年間も栄え、明治維新の折には多くの志士を輩出したことでも有名です。しかし、文久三(一八六三)年に藩庁が山口に移ってからは城下町としての機能を失い、明治七(一八七四)年には天守閣も解体され、多くの武家屋敷も取り壊されました。

 今回紹介する「萩市堀内地区」は外堀の内側に位置することから付いた名称で、三の丸の大部分を占め、武家地と町人地は外堀と土塁によって隔離され、北、中、平安古(ひやこ)の総門の三カ所からしか出入りはできませんでした。

見どころの一つになっている口羽家の長屋門=山口県萩市堀内地区で

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 選定範囲は東西約九百メートル、南北約七百メートルの旧堀内地区のほぼ全域にあたり、御蔵元、御木屋(おこや)、諸郡御用屋敷などの藩役所が置かれ、毛利一門や大身(たいしん)の侍屋敷も並び、伝統的建造物が四十五件もあります。

 堀内地区は城下町の武家屋敷として地割を残し、規則正しく交差する碁盤目状の道路の両側に土塀や石垣がたくさん残っています。土塀や石垣は明治時代以降に一部修復されたとはいえ、江戸時代の城下町の景観や雰囲気をよく伝えています。

 昭和五十(一九七五)年に伝統的建造物群保存地区制度が創設され、翌年には七カ所が最初の重伝建地区に選定。堀内地区も含まれています。同五十三年には旧周布(すう)家門や旧益田家物見櫓(やぐら)などが建つ地域が保存地区として追加されました。

 見どころは、口羽(くちば)家の主屋と表門、旧福原家萩屋敷門、旧梨羽(なしば)家書院、史跡藩主毛利家墓所(天樹院)、萩学校職員室などたくさんありますが、これらは保存修理の積み重ねによって現在の景観が維持されていることを忘れる訳にはいきません。

長さ232メートルもある益田氏旧宅土塀

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 さて、各自治体が重伝建に力を入れる理由の一つが観光客誘致です。私はこれまで多くの重伝建を回りましたが、ある種の危機感を持っています。現在その数が百を超えて関心が次第に薄れたことに加え、新たなライバルの台頭が脅威となっています。その最大のライバルこそが「世界遺産」だと思います。さらに文化庁が認定する「日本遺産」も加わって混乱の度を深め、一般の方々にはその違いが分かりにくいと感じます。

 萩市内で何人かの人に重伝建について話を聞くと、その名称を知らない人も多く、「萩は世界遺産ですから」というそっけない返事もありました。「重伝建よりも世界遺産リストに登録された『萩城下町(旧上級武家地)』の方が格上である」と考える人が多いように感じました。

(本谷文雄=大衆文化研究家)

 ◆基本データ◆

 所在地  山口県萩市 大字堀内字堀内及び字堀内村の各一部

 種別   武家町 面積   約55・0ヘクタール

 選定年  1976年(範囲拡大 78年)

 選定基準 伝統的建造物群及び地割りがよく旧態を保持しているもの。

 

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