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北陸文化

【本谷のこだわり学 重伝建の巻】 津山市城東(岡山県津山市)

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江戸初期の地割り残る

 岡山県北東部に位置する津山市は、美作(みまさか)地域の中心地で鉄道の要衝でもあります。

 津山の名は、津山藩の初代藩主森忠政が慶長九(一六〇四)年に吉井川北岸の鶴山を居城に定め、この地を津山と改名したことに由来します。津山城は十二年の歳月をかけて元和二(一六一六)年に完成し、北の丹後山の丘陵から南の吉井川にいたる暖斜面の北側には社寺と武家地、南の低地帯には武家屋敷地と寺院街、出雲街道に沿って町人地が形成されました。

 津山城は石垣を残してすべての建物が解体されましたが、津山城最大規模の備中櫓(やぐら)は二〇〇五年に復元されて公開しています。

 今回紹介する津山市城東は、その名のとおり津山城の東に位置し、姫路を起点として松江に至る出雲街道が東西方向に貫通します。

出雲街道に面して建つ町家

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 津山藩は延宝六(一六七八)年に宮川大橋の西詰めに東大番所、宮脇町の翁橋東詰に西大番所を設置し、この番所を境に城下を内町と外町に分けて出雲街道の取り締まりを行いましたが、城東地区は東大番所の東側にあり、東西約一二〇〇メートルの細長い区画が重要伝統的建造物群保存地区です。

 城東地区は、明治時代以降も吉井川を航行する高瀬舟による物資の集積地として繁栄し、その後は商家町から商業地として発展しました。道路を拡張することもなく、現在も江戸時代初期の地割りをよく残し、江戸時代後期から昭和戦前期を中心とした伝統的な町家が数多く残っています。

 城東地区では出雲街道に面して主屋が建ち、その奥に土蔵や付属の建物が並びます。宅地の間口は二間から四間と狭いものの奥行きは約十七間もあり、間取は土間と一列、もしくは二列の居室(きょしつ)が一般的です。

津山洋学資料館と前庭に建つ宇田川玄随らの銅像=いずれも津山市で

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 主屋は二階部分が低い“つし二階建て”で、切り妻造りの平入(ひらいり)を基本とし、二階の窓は虫籠(むしこ)窓(目の細かい縦格子を入れた窓)や出格子窓が多く、屋根の両端には袖壁(防火などのために外に出っ張った壁)を設け、海鼠(なまこ)壁(四角い平瓦を張り、目地(めじ)に漆喰(しっくい)をかまぼこ形に盛り上げた壁)や煙出(けむだ)しを持つ建物が目立ちます。

 城東地区の見どころは、江戸時代の町家を復元した無料休憩所の「作州城東屋敷」や、江戸時代後期の母屋から昭和初期の蔵が保存される登録有形文化財の「城東むかし町家」(旧梶村家住宅)などの建物です。

 津山藩は江戸時代後期から明治時代初期にかけて、宇田川(うだがわ)・箕作(みつくり)両家をはじめとする優れた洋学者を輩出したことで知られていますが、昭和五十一(一九七六)年に解体復元を終えて、現在は国指定史跡になっている箕作阮甫(げんぽ)旧宅(十三頃歳まで阮甫が住んでいた生家)や、その隣に建つ「津山洋学資料館」(二〇一〇年に新館を建設して移転し、洋学者の資料や業績を紹介する施設)も必見です。 (本谷文雄=大衆文化研究家)

 ◆基本データ◆

 所在地 岡山県津山市 橋本町、林田町、勝間田町、中之町、西新町及び東新町の各一部

 種別  商家町

 面積  約8・1ヘクタール

 選定年 2013年

 選定基準 伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの。

 

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