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北陸文化

【本谷のこだわり学 重伝建の巻】 竹原市竹原(広島県竹原市)

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製塩で富み 町人文化根付く

 広島県南部に位置する竹原市竹原は、安芸の小京都とも呼ばれる情緒ある町です。私は昨年暮れにJR竹原駅から歩いて重伝建地区に入りました。

 中世の竹原は小早川氏が支配し、江戸時代になって広島藩の支配地となりました。正保元(一六四四)年には町年寄が置かれて町としての形態が整えられ、正保三(一六四六)年から田畑を増やすために入江の埋め立てを開始しました。しかし、塩気が多くて稲作には不向きでした。その折に「塩田にしたら」との助言があり、代官鈴木重仍(しげより)の指導の下、赤穂から技術者を招いて入浜式の塩田開発を行い、慶安三(一六五〇)年から塩生産を開始しました。その結果、良質の塩が採れて巨額の利潤を得たので、豪農や商家が競って塩浜経営に乗り出し、四〜五年の間に六十町歩(約六十ヘクタール)もの面積となり、竹原は播州赤穂とともに瀬戸内海屈指の塩生産地となりました。

旧笠井邸2階から本町通りを見る=いずれも広島県竹原市で

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 塩は船で摂津、尾張、酒田など各地に運ばれましたが、塩で財をなした人々は、塩造りの閑散期に酒づくりを行い、その酒は船の潮待ちや商人の交流などに用いられて竹原はにぎわいました。

 竹原は江戸時代後期の儒学者頼山陽が幼少期を過ごした土地ですが、江戸時代後期には塩田や酒造などで蓄えた富を元に、頼一族らが町人たちに学問を奨励したので、この地に文化が根付きました。

 しかし、栄枯盛衰は世の常。江戸中期の享保年間以降、各地で塩田が開発されて生産過剰となり竹原でも次第に塩田不況となり、昭和三十五(一九六〇)年には竹原の塩田はすべて廃止となりました。ちなみに現在百十二カ所ある重要伝統的建造物群保存地区で、製塩町としての選定はここだけです。

塩田開発の功労者鈴木重仍(しげより)の彰徳碑

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 さて本題に戻りましょう。保存地区は江戸時代の市街地とほぼ重なり、胡堂(えびすどう)と旧笠井邸を結ぶ本町通りが最大の見どころで、江戸時代中期の頼惟清旧宅や、竹原最古(一六九一年)の母屋を持つ吉井邸、さらに町並み保存センターや塩田関係資料を展示する歴史民俗資料館があります。本町通りから脇に伸びる大小路には重要文化財の春風館頼家住宅(一八五五年)と復古館頼家住宅(一八五九年)があり、東の山麓には西方寺などの寺院が並んでいます。

 三味線の音に誘われて本町通りの北端に建つ旧笠井邸に入りました。ここで津軽三味線を習ったという若い女性は「この建物は塩田の財で築いたものです。この建物から伸びる本町通りは特に観光客が多く、最近は中国・韓国・台湾などのアジア圏からの観光客が増えています。NHK連続テレビ小説『マッサン』が放映された時は多くの観光客がありました」と教えてくれました。

 恥ずかしながら「マッサン」を見ていないので、竹原がニッカウヰスキー創業者竹鶴政孝の故郷であることも知らず、さらに国民所得倍増計画を実施した池田勇人首相のふるさとが竹原市であることも今回の旅で初めて知りました。この小さな町からこうした人たちが誕生したのも、塩や酒などで得た富を文化に注いだ結果だと思います。(本谷文雄=大衆文化研究家)

 ◆基本データ◆

所在地 広島県竹原市本町一丁目、三丁目、四丁目の一部

種別  製塩町

面積  約5・0ヘクタール

選定年 昭和57(1982)年

選定基準 伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの

 

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