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北陸文化

【美術】等伯 富山で絵師の一歩 寄稿 松嶋雅人

新たに長谷川等伯(信春)の作品と確認された「鬼子母神十羅刹女像」=富山県氷見市で

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氷見・蓮乗寺「鬼子母神十羅刹女像」の意味

 長谷川等伯(一五三九〜一六一〇年)は、巧みな筆さばきで光や風まであらわした「松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)」(東京国立博物館蔵)、金箔(きんぱく)の画面に極彩色で華やかな「楓図壁貼付(かえでずかべはりつけ)」(京都市・智積院蔵)などの国宝で、日本のみならず世界的に知られた戦国時代の天才絵師である。

 等伯は能登・七尾に生まれ、はじめ信春(のぶはる)と名乗って北陸を中心に活動し、仏画を主に描いていた。のちに京都に本拠を移した等伯は、天下人・豊臣秀吉に仕えるほどの絵師に上りつめる。これまでの等伯研究は、三十代以降の作品を中心に進められてきたが、石川県七尾美術館など、北陸の研究者たちが中心となって充実した作品調査が進められ、前半生の七尾在住時の画業がますます明らかになってきた。このたび、新たに見いだされた蓮乗寺(富山県氷見市)の「鬼子母神十羅刹女像(きしもじんじゅうらせつにょぞう)」は、さらに画期的な意味をもつ作品といえる。

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 信春時代に等伯は、作品に捺(お)す印の形を四角形の矩形(くけい)から、布袋の持つ袋のような袋形、そして三本足の金属の釜の鼎(かなえ)形と変えていった。蓮乗寺には、等伯とやはり絵師であった養父の長谷川宗清(道浄)との合作「宝塔絵曼荼羅(ほうとうえまんだら)」が伝わり、若き等伯が絵師として最初期に使った矩形印が捺されている。こちらは父の仕事を手伝いながら、等伯が腕を磨く姿が彷彿(ほうふつ)とされるものである。

 等伯の作品で、制作時期が明らかで最も早い時期(等伯が二十六歳のとき)に描かれた大法寺(富山県高岡市)の「鬼子母神像」などよりも、蓮乗寺の二作品はともに落ち着いた彩色であるので、父の画風の影響下にあるのだろう。同じ矩形印が捺された妙成寺(石川県羽咋市)の肖像画「日乗上人像」は明るく彩色されていて、熟達した身体表現がみてとれるので、蓮乗寺作品の制作時期はさらに早くに描かれたものとして、二十代前半、さらにいえば十代後半の作品とも考えることができるのだ。したがって蓮乗寺の鬼子母神像は、等伯が一人で描いた作品のなかで、最も時代が遡(さかのぼ)るものとして注目できるのである。

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 また近年の作品調査では、等伯の作品とともに、父宗清と祖父無文の作品が次々と確認されている。その所在分布をみると、父たちが七尾を中心とした日蓮宗寺院の仏画制作を行い、等伯は蓮乗寺作品や、当時、越中国放生津(現在の富山県射水市)にあった大法寺などで、父の助手を務めながら、絵師として第一歩を踏み出したのではないかという仮説も生まれてこよう。

 長谷川家は篤(あつ)い日蓮宗信徒で、等伯は仏画を描く一族の子として育った。鬼子母神は仏法を護(まも)る神として崇(あが)められ、日蓮宗では安産、子育ての神として祀(まつ)られるようになり、羅刹女を鬼子母神の子としてみなすようなった。北陸では女性の鬼子母神信仰が高まって、講(仏の教えを聞く集会)がさかんに組まれたようだ。そして等伯は大法寺(高岡市)、妙伝寺(富山市)、本成寺(新潟県三条市)などにも鬼子母神像を描いており、北陸における高まる需要に応えていたのであろう。

画風の変遷 貴重な具体例

 さらに蓮乗寺作品は、鬼子母神を中心に大きく描いて、その周りを羅刹女が取り囲んでいる。その構図は、三十代の作品である妙伝寺と本成寺の鬼子母神像とも共通しているので、それらの表現方法を比べることで、画風の具体的な変遷を知ることができる。

 このように蓮乗寺の鬼子母神像は、戦国時代の画壇に一閃(いっせん)の光を放った等伯の全貌を知る上で、画業のスタートラインに立った作品として計り知れないほどの意味を持ち、同時に等伯自身の信仰にも密接に関わる作品なのである。

 まつしま・まさと 1966年大阪市生まれ。金沢美術工芸大卒、同大院修士課程修了、東京芸術大大学院博士後期課程単位取得。武蔵野美術大、法政大の非常勤講師を経て、99年から東京国立博物館研究員。2010年の「没後400年 長谷川等伯」(東京国立博物館・京都国立博物館)など担当。

 

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