トップ > 北陸中日新聞から > 北陸文化 > 記事一覧 > 10月の記事一覧 > 記事

ここから本文

北陸文化

【特攻への道 戦後70年】 田中三也さん(92)=石川県白山市出身

寄稿 早瀬徹

田中三也兵曹長、満18歳のころ(手前、鉢巻き姿で)

写真

 田中三也(みつなり)さんは石川県鶴来町(現白山市)に生まれ、現在は千葉県我孫子市にお住まいの九十二歳。金沢一中(現金沢泉丘高校)から、一九三九(昭和十四)年十月、予科練習生(甲五期)として霞ケ浦海軍航空隊に入った。

海軍偵察機の決死行

搭乗機失い出撃見送る

 操縦組と偵察組に分かれる中、田中さんは偵察組に。そこで「戦争は命のやりとりだ」「自然を味方にせよ」と班長から教わる。四二年四月にインド洋のアンダマン諸島へ。ついで八月、巡洋艦「利根」に乗艦し、零式水上偵察機に乗る。第二次ソロモン海戦のガダルカナル島奪回の部隊支援と敵の空母捕獲撃滅が目的であった。

 翌年七月、横須賀で偵察特練の二期生に。「訓練内容は艦型識別、天測航法、洋上遠距離航法、高高度局地偵察、写真偵察、無線、実体双眼鏡使用の写真判読など、厳しかった」という。

 四四年三月、硫黄島、テニアン島からトラック島へ。「操縦士に緊急時の手綱戦法を提案。空中戦になると伝声管を通してのやりとりでは間に合いません。そこで彼の飛行帽左右の耳の下にひもを結わえ、敵機が右後方からくれば右の手綱を引く。機を右へ横滑りさせて、敵の射線をかわすわけです。両手がふさがる時はひもを口にくわえて合図しました」。数多くの戦いを生き抜くことができたのも、この戦法によることが大きいという。経験が命をつないだといえる。

写真

 同年五月、あ号作戦に先立ちトラック島から二式艦上偵察機でソロモン方面のツラギ挺身(ていしん)偵察にいく。ラバウル、ニューギニア東海岸へ。日中の天測は揺れる機上で高度の技術が要求される。高角砲がポカッと白くさく裂する中、空母サラトガの行方を捜して撮影する。捨て身の超低空侵入により、『空母一、戦艦一、巡洋艦一、その他四十隻』と打電。

 その帰り、ラバウルは敵の空襲中で使用不可。トラック島に戻ることになるが、滝のような豪雨を受けて飛ぶうちに燃料がなくなる。「燃料タンクや機銃弾を洋上に投下し、不時着の準備にもかかった時に島が見えてきました。航法に狂いはなかった、涙が出ました」と語る。五日間、およそ六千キロの決死行を遂げた。その夜、司令部の防空壕(ごう)に呼ばれ、連合艦隊司令長官豊田副武大将から個人感状の電報をいただく。

 同年十月、田中さんはマニラに飛ぶ。ここで忘れられない光景を見た。「爆弾を命中させて特攻機が帰ってきたが、指揮官に戦果の報告を終えるや、再度出撃の命令を受け、休む暇なく単機で出撃していきました。搭乗員自ら、爆弾が投下機から外れないように針金で縛ってです。二度と帰らぬ証しを針金で縛ることで示したのです」。身が引き裂かれる思いがしたと言う。

 その後、フィリピンを四百キロ歩いて北上しツゲガラオ基地に。四五年一月、零戦三機、彗星(すいせい)一機の神風特別攻撃隊金剛隊が組まれた。偵察隊からも一人出すことになり、異様な空気が流れた。「特攻は決して納得のいく死に方ではないが、飛行機乗りとしてのひとつの死に方であろう」と、田中さんは「俺が行こう」と名乗り出た。一時間前に台湾行きが決まり喜んだばかりだったが、急転して死の旅にたたねばならなくなる。二百五十キロ爆弾を手でなで、日の丸鉢巻きを力いっぱい結ぶ。

戦争当時を振り返る田中さん=千葉県我孫子市で

写真

 ところが零戦の一機がエンジン不調で、出撃が明朝に延期。その晩、敵機が来襲し、乗るはずだった彗星が爆破されてしまう。翌日、同乗させてくれと操縦士に頼むと「一機一人でたくさんだ。命を無駄にするな」と言われ、無事だった零戦二機は爆音を残して消えて行った。フィリピンからの最後の特攻出撃だった。

 十五歳から六年間、戦争に翻弄(ほんろう)された田中さんの生死。運命さえ超える信念で生きてこられたのに違いない。八月十五日、飛行服や持ち物を燃やし、鹿屋基地(鹿児島県鹿屋市)から要務飛行で彩雲一機が小松基地に飛ぶのに便乗。夜、鶴来のわが家の玄関に立った時、祖母が出て来て足をしっかりつかみ「こりゃ、ほんものだ」と、涙で孫の三也さんを迎え入れてくれた。仏壇には灯明がともっていたという。

  (はやせ・とおる=著述業)

 

この記事を印刷する

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索