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北陸文化

【特攻への道 戦後70年】 日元隆さん(92)=石川県小松市東町

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寄稿 早瀬徹

 一瞬の判断が人生の岐路となった。そんなことを実感する今回の取材だった。情報将校だった日元(ひのもと)隆さん(92)=石川県小松市東町=は終戦を朝鮮・京城(現韓国ソウル)で迎えた。

家族を結んだ一瞬

すれ違う列車に弟の顔

 一九四五(昭和二十)年八月十五日、菰田康一京城師官区司令官に復員の申告に行ったときのことだった。「『これからは君たちの時代がくる』と両手を握ってくれた。おまえではなく、君と言ってくれたことが心に残りましたね」。八月二十三日、身の回りを整理し、日元さんは父に少尉の軍服をひと目見せようと、朝鮮半島北部の江原道(カンウォンド)に向かう列車に乗った。そこは日元さんが生まれ、家族がいるはずだった。しかし、その朝、何ともいえない胸騒ぎがした。

見習士官時代の日元隆さん

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 列車に乗ると、朝鮮語の大合唱が始まった。歌は『蛍の光』だった。そして、朝鮮独立の歌が流れた。彼らの声は誇りに満ちていた。

 その時がやってきた。列車が見村駅に来た時だった。反対側のホームに、屋根のない貨車が入って来た。朝鮮半島北部から逃げて来た日本人たちがいっぱい乗っている。その中に一瞬、四歳下の弟の顔が見えた。

 日元さんは将校行李(こうり)を手に、走る列車から飛び降りた。転がり落ちたが、芝生の上だった。すぐに反対側の列車に走った。そこには家族がいた。千載一遇の出会いというしかない。父母や弟、妹、姉が涙を流して喜んでくれた。「もし、少尉の軍服を着たままで江原道に行っていれば、シベリアに抑留されることになったか、情報将校ゆえに銃殺されていたかもしれない。あの胸騒ぎは今も神のご加護であったと信じています」

 日元さんは江原道で大正十二年一月に生まれる。父親の故郷の小松中学校(後継・県立小松高校)を昭和十七年春、卒業し、夢は大陸で実業家として成功することだった。中国・北京の興亜学院に入学したが、翌十八年の秋、学徒出陣により姫路の師団に入隊。北京近く石門予備士官学校に入る。卒業の日、校長から「おまえの成績は優秀だ。陸軍中野学校の試験を受けてみよ」と言われる。

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 中国河北省・山海関(シャンハイコワン)から釜山、下関に行き、浜松へ向かう。遠州鉄道に乗り、中野学校二俣分校へ。中野学校では国のこと、日本民族のことを学んだ。驚いたのは授業が始まってからだった。「解錠法」という授業はいろんな鍵の開け方を教える内容だった。開緘法は封筒を開けて、中の書類を見てまた気付かれないように閉じる。変装法は違った人物に成りすますことであった。

 「夜、こっそりと浜松の陸軍飛行場に忍び込み、爆弾を仕掛けて帰ってくる授業もありました。歩哨に銃で撃たれるかもしれません。冷や汗を流しましたね」と笑う。任地先を選べと言われ、「希望として、一番は朝鮮。言葉は上手に話せるし家族がいます。二番目は金沢。三番目はバナナを腹いっぱい食える台湾でした」。

 二十年四月に、京城師団の師官区司令官参謀付きとなる。この頃、将校が集まる場で戦艦大和が沈んだといううわさも耳にし、沖縄に米軍が上陸したことも知る。「見習士官でしてね、食堂では菰田中将の前に座り、接遇する係でした。その時、中将が参謀少佐に聞かれた。『勝つ見込みはあるか』と。すると、少佐は『たいへん難しいところにあります』と返答された」という。敗戦はもう見えていたともいえる。

 そして終戦。「朝鮮総督府で働いていた父は土地を二千坪ほど買っていましたが、敗戦で無に帰しました。戦後、家族は無一文からの出発でした」

 日元さんは手品が上手で、二回目の取材の時、口の中から小旗を出して見せてくれた。手品にはタネも仕掛けもあるが、日元さんの偶然は手品ではなかった。すれ違う貨車での家族との出会い、そして努力と汗で築いた戦後七十年は「一瞬」から始まり、長い時間であったとつくづく感じた。

 

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