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北陸文化

【特攻への道 戦後70年】 東太一郎さん(87)=石川県白山市出身

寄稿 早瀬徹

自らの手記などを手にする東太一郎さん=金沢市菊川で

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 石川師範を昭和二十四(一九四九)年に卒業した東(旧姓石森)太一郎さんは元教師で、石川県白山市森島町出身。現在は金沢市菊川に住む。昭和二年九月生まれ、松任農学校三年生の九月、十七歳の時、母に黙って甲種予科練に志願し合格した。出兵時に母親から「二十にもならんがに、なんで行くがか。死ににいくだけや」と泣きつかれる。

海底の少年飛行兵

隠密「伏龍」粗末な装備

 昭和十九年九月一日に滋賀海軍航空隊に入隊。七カ月後、福知山航空隊(京都府)へ。草刈りをさせられ、滑走路を整備する。二十年五月に入ると、横須賀軍港へ。軍艦も飛行機の姿もなく戸惑った。

 待ち構えていたように嵐部隊橋本大隊七一突撃隊にいれられる。「人間機雷」とも言われる「伏龍特攻隊」だった。

 「空を飛ぶのではなく、海の底を歩くとは夢にも思っていなかった」。上官からは「君たちの命でこの日本を救うのだ」と言われる。伏龍特攻隊を知る人は少ない。海軍が構想した本土決戦の最終機密兵器だ。隠密性も高く、機雷を抱いて三百メートル沖の敵艦船に当たり、爆発させて沈没させるという悲壮な作戦であった。逃げ場はない自爆だった。簡易ゴム潜水衣を着て水中を歩き、竹やりの先に付けた機雷で敵艦船に近づくという究極の特攻である。

実際にはもっと長いと思われる(装備から推測したイメージ)

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 米軍の戦車を積み込んだ上陸用船艇が標的。十人で一隊を編成し、海上から麻縄が引っ張られて、左や右に行くように合図される。丸い鉄の兜(かぶと)をかぶり、面ガラス越しに海中をみる六十キロの潜水衣を着る。

 「伝馬船に十人ばかり乗り、三人一組で構成。二人がかりで潜水衣を着せ、鉄の面をかぶり、ボルトを締めてもらう。酸素ボンベを二本、空気清浄缶を背にし、腹に三キロ、足に三キロの鉛。腰の弁で空気の調節をするのです。空気を多く入れ過ぎると、すぐに海上に浮いてしまい、上官から足で頭を蹴られます。真っすぐ歩くための空気調節にひと苦労しました。今だから笑えますがね」と振り返る。

 呼吸法を間違えると、死に直結する。自分の吐いた二酸化炭素が含まれる空気を吸って意識を失い、訓練中に亡くなる者は多かったらしいが、そのことは軍の秘密とされていた。「とにかく鼻で空気を吸って、口から吐く練習をしました。ウンパ、ウンパとリズムをとりましてね」。ウンで吸い、パで吐く。東さんは就眠前に必ず訓練した。

 訓練中の死者は戦後も明らかにされてはいないようだ。隊内では、仲間の死はささやかれていた。「訓練後、面ガラスを脱がしてもらうと空気が肌に感じられ、空気のおいしさに生きていると思うが、逆にボルトで締められると棺(ひつぎ)に閉じ込められたような気がしたものです」

福知山航空隊時代の東太一郎さん

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 八月十五日の玉音放送は通信学校の前で聞いたが、隊長が軍刀を抜き「伏龍隊はまだ降参はしない。明日からまた訓練を続行する。終わり!」と叫んだ。誰も声をあげない。隊は久里浜から舞鶴へと特潜機を箱詰めし、列車で夜中に運びいれた。

 ところが、進駐軍が来たら特攻隊ゆえに真っ先に捕らえられるといううわさが走った。不安のまま、翌朝、靴下を二足もって集合せよと言われた。なぜ靴下を持って集まるのだろうかと思い、整列すると、上官の口から初めて日本は負けたと言われる。そして、靴下の中へ米を四合入れてくれた。毛布が二枚支給され、列車の切符をもらう。

 八月二十八日、東太一郎さんは朝四時に西金沢駅に到着。家に着くと稲刈りに出て誰もおらず、目の前に白山連峰が広がっていた。「ああ生きて帰ってこられたという実感が湧いてきた」。復員局からもらった金が確か五百円。「自分の命は五百円か」と思ったという。

 二十一年に石川師範に入学し、教師の道を歩むことになる。伏龍隊は飛行機に乗れなかった少年飛行予科練習生に課された特攻作戦だった。龍は伏されたまま、実行される前に幻となって終戦を迎えた。九死に一生を得た東太一郎さんだった。 (はやせ・とおる=著述業)

 

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