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北陸文化

【特攻への道 戦後70年】「どうせ死ぬなら戦地で」 清水武敏さん(石川県能美市)

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寄稿 早瀬徹

消えない2年 

 「訓練で死ぬよりも、戦地で死にたい」。一九四四年(昭和十九年)夏、信州上田教育隊で、九五式一型練習機に乗って訓練していた清水(旧姓本田)武敏さんは、そんな嘆願書を上官に出した。

 二五(大正十四)年一月生まれで、現在は石川県能美市大浜町に住む。進学した小松中学校(後継・石川県立小松高校)では剣道に打ち込んだ。二人の兄が歩兵隊にいて重い銃をかついで走り、地にはいつくばっているのを目にして「歩兵隊があんなふうなら、飛行機に乗ってやろう」と、陸軍特別操縦見習士官を志願した。

 日本が南方に勢力を拡大していたので、マレー語や中国語を教える東亜専門学校(千葉県)に入学した。十八歳の時、十月二十一日の小雨降る神宮外苑の出陣学徒壮行会に臨み、先生や仲間から贈られた寄せ書きを持って行進した。

 四四年六月一日に熊谷陸軍飛行学校(埼玉県)に入隊する。いわゆる「特操」の三期生となる。二カ月間ほどグライダーに乗り、基礎訓練を受け、上田基地(長野県)に配属。そこでは、オレンジ色をした複葉機の「赤とんぼ」と呼ばれる九五式一型練習機で、千曲川の河川敷にこしらえた飛行場で実戦訓練をする。気流が強い飛行場だった。

 「川を北上して新潟・直江津まで夜間に飛ぶのです。すでにB29が空襲のために飛んで来るので、見つからないように夜間訓練ですね。五機で編隊を組み、羅針盤と前方の飛行機の白い排ガスを頼りに水平飛行するのです。時速と距離と風力で目的地を出すのですが、風が強いとずれてしまいます」。当時を振り返る。

飛行機に乗り込む清水武敏さん=1945年ごろ、上田基地で

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 編隊を組むと各機二十メートルずつ高度差が出るため、山の端にぶつけないように飛ばなければならない。直江津の海まで爆弾を積んで飛び、敵艦に体当たりする訓練だ。

 「灯火管制のもと、暗いので高度を間違え、山に機を当てて、亡くなった者もいます。だから、どうせ死ぬなら戦地で特攻をと願うわけです」

 九五式一型練習機は速度が出ないが、レーダーに映りにくい。海上五十メートルぐらいの低空を飛び、対空砲火を避けるのだが、敵艦は海に向かって砲弾を撃つ。すると高く水しぶきが上がり、翼にかかってくる。

 そんな中での特攻となる。輸送船で南方に向かった戦友は飛行機に乗る前にほとんど撃沈され死んでしまった。四五年五月、上田には百人ほど残っていたが、清水さんはじめ二十五人が特攻隊を拝命。「死にたくはありませんが、鹿児島の知覧へ行けと言われ、毎日が不安でしたね。すでに知覧基地から特攻に飛んだ仲間もいました」。その仲間を知覧に見送る時、家族が別れに来て、一緒に滑走路に並んで送り出す。泣いている若い奥さんの隣で、幼い子が無邪気に笑い喜んでいる光景は忘れられないという。

 六月、艦載機の攻撃を受けて上田基地の飛行機が全滅。福島・磐城の飛行場から来る飛行機を待っているうちに、終戦に。そして、玉音放送の翌日、妻帯者だった教官の准尉が裏山で宮城(東京)を拝して自刃した。遺書を残して、正装した二十歳の妻と生後二カ月の赤子も共に亡くなった。

 「教えた者を特攻に出したことに責任を感じたのでしょう。真面目な方でした」。特操仲間で碑を建て、墓参りを続けてきたという。去年も出かけたが、もう歳なので今年は行けるかどうか。「私の人生の九十年のうち、あの戦時の二年間はいまだに頭に残っています。消えることはありません」。そう何回もつぶやいた。 (はやせ・とおる=著述業)

 

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