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北陸文化

【特攻への道 戦後70年】 陰で支えた整備員 藤島善和さん(石川県白山市)

予科練生時代の藤島善和さん

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寄稿 早瀬徹

戦友の命預かる重責

 「菓子やたばこをくれた先輩の特攻隊員が基地から飛び立つのを見送ったことが忘れられません。車止めをはずすと、風上に向かって次から次へと飛び去って行く飛行姿に、懸命にボウをふりました」

 一九四四(昭和十九)年五月に十四期甲種飛行予科練習生(予科練)に前期入隊した藤島善和さん(87)=石川県白山市白山町=が話す。ボウとは帽子で、海軍では人と別れる際に振る。特攻に往く者と見送る者の惜別の情である。

 金沢商業学校に通う十六歳の時に入隊した。出征する際、当時の村では村長はじめ五十人の方が集まり、壮行会を開いてくれた。

 第二岡崎海軍航空隊に入隊し、『赤トンボ』と呼ばれている練習機の整備につく。整備教育二十一分隊九班に配属。分隊は全員で二百五十人。司令から「これからの搭乗員は飛行機の故障を自ら点検し整備しなければならない。まずは整備の技術を習得してほしい」と訓示された。

 後からわかったことだが、大量に採用した飛行予科練生を最初から搭乗員以外の要員として養成することは、海軍の信用に累を及ぼすからそう言ったのだった。練習機でエンジンの分解と結合を覚え、「実施部隊」の神之池(こうのいけ)航空隊(茨城県)へ。桜花(おうか)を抱いた一式陸攻、五二型零戦などの整備をする。

 桜花が訓練中に着地に失敗して地面に激突するのを目にした。一瞬のことだった。神之池は特攻兵器・桜花の訓練地であり特攻基地でもあった。ボウを振って、特攻隊員を見送った基地である。神之池は空っ風が吹き、寒かった。寒いとオイルが固まるので、プロペラが回転しやすいように潤滑油をさし、手動で力を借りて回すことになる。

 やがて宮崎航空隊、都城航空隊(宮崎県)に移り、二十年の三月に鹿屋基地(鹿児島県)へ。鹿屋は海軍の有名な特攻基地。敵のグラマンが低空で波状攻撃をかけてきた。「いきなりの空襲警報に逃げました。機銃を撃ってくるのを避け、丘の向こうの雑木林の中に逃げ込みました。バリバリと頭上から撃ってくる音が耳の底から離れません。基地に置き去りにされた一式陸攻や零戦に爆弾が落とされて、炎を上げて燃えてゆく様子は無残でしたね」

第二岡崎海軍航空隊庁舎=海軍甲種飛行予科練生入隊50周年記念誌「飛翔」から

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 特攻に出た零戦が離れ島に不時着したり、飛べなくなって帰って来るのはたいがいプロペラの調子が悪くなったからだ。「整備員は陰の力を発揮しなければなりません。戦友の命を預かるのですから、心のつながりが必要です」。整備員は五人で一チーム、零戦は空冷複列星型十四気筒。とりわけ点火プラグの点検、気化させるシリンダーを分解し調節、洗浄に気を使った。ねじ一本も緩んでいてはいけない。昼夜も問わずに整備をするが、それでも特攻機が粗悪な機体になっていくのがわかった。

 「整備を覚えたら飛行を教えると言われ続けられてきましたが、搭乗員になることはできませんでした。ところが操縦席に座り、零戦を試運転することがありましてね。『コンタクト!』(点火)と大声で言い、『スイッチオン』と続けるとエンジンが回転、その腹に響く音を耳にし、オイルが焼ける匂いに体が震えました」。敵性語の英語を使っていたのは、英国海軍を見習ってきた海軍では無理に日本語に直すと、作業が混乱するからだった。

         ◇

 八月十五日の玉音放送は、鹿屋に近い姶良(あいら)小学校の校庭で聞く。放送が流れても、日本が負けたんだと言う悲壮感はなかった。

 上官が、敵が九州に上陸してくるかもしれないので、早く帰れと命じた。衣嚢(いのう)は転隊する松山基地(愛媛県)にすでに送ってしまっていた。軍服ひとつで汽車を乗り継ぎ、二十六日、西金沢の駅に着く。金名線に乗り換えて白山町へ。祖父と母のひろさんが生きて帰って来たことを喜んでくれた。

 「母が丹精込めて育てたカボチャの煮物をいただきました。甘くておいしかったです」と笑う。その時、初めて家に帰って来たんだという気持ちが湧き上がってきた。この世に栄光という功があるならば、それを支える陰こそ大事にしなければならない。これは戦争時だけに限ったことではないはずだ。 (はやせ・とおる=著述業)

 

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