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【4紙独断 野球殿堂】

強肩

2017年11月28日 15時22分

 スポーツ4紙の選考委員会が、独断で「野球殿堂」入りを決める第11回のテーマは「強肩」。南海の遊撃手だった定岡智秋は、1975年のオールスターで野球ファンを驚かせた。西武の黄金時代に鉄壁の外野陣を形成し、ダイエーでも日本一に輝いた秋山幸二らとともに、野球ファンを魅了した強肩の持ち主を紹介する。 (文中敬称略)

定岡智秋 抑止力

「試合前に3勝」

南海の強肩遊撃手として活躍した定岡

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 75年7月20日に中日球場(現ナゴヤ球場)であったオールスター第2戦。試合前に行われた遠投競争で、プロ4年目の22歳がファンを驚かせた。「肩の強い人ばかりだったけど、楽勝…だったかな」。定岡はいたずらっぽく振り返る。

 参加メンバーは全セと全パから各3人。山本浩二(広島)、高田繁(巨人)、大橋穣(阪急)ら強肩選手が顔をそろえた。中堅後方から本塁方向へ3度遠投。他の選手が110メートル前後の中で、定岡は120メートルを軽々とクリアして圧勝した。

 当時の西日本スポーツは「試合前に3勝」の見出しで報じ、定岡の「肩では誰にも負けない自信がある」との言葉も紹介している。「(遠投を)ちゃんと測ったのは初めてだったかな。123、4メートルだったと思う」とこともなげに笑う。

有名な「3兄弟」

 有名な「定岡3兄弟」の長男。2人の弟もプロに進み、甲子園のスター投手だった次男の正二は巨人で通算51勝を挙げたが、肩の強さは長男が別格。「弟たち? 問題にならなかったね」。遊撃に定着したのが、球宴初出場した75年だった。

名手からの助言

 遊撃での見せ場は「三遊間の深いところからの一塁送球。ほとんどノーステップだった」。当初は全力で投げるだけだったが、74年に在籍した一塁手パーカーの助言で変わった。ドジャースで6年連続ゴールドグラブ賞を受賞した名手だった。

 「高い送球は捕れないが、低い送球は何でも捕ってやる」。そこから「低い送球」の意識を徹底し、強肩を存分に発揮できるようになった。75年に入団したネトルスは、定岡の低くホップするような送球を「よく手首に当てていた」という。

 当時の南海は、右方向に打球が飛んだ場合も中継に入るのは、二塁手ではなく遊撃手の定岡だった。三塁手だった藤原満は「カットマンの定岡がボールを握ると、相手はみんな走者を止める。いわゆる(進塁の)抑止力。チームにとって大きかった」と話す。

 定岡の通算打率は2割3分2厘。通算88本塁打と一発はあったが、決して「打の人」ではなかった。それでも長く1軍でレギュラーを張れたのは、本塁への送球でも「ラインさえ間違いなければ、ほぼ刺せた」という肩があればこそだろう。

自慢したのは・・・

 当時、オフに中百舌鳥球場で行われていた入団テストでは笑い話もある。2軍監督だった穴吹義雄に呼ばれ、参加者の前で「サダ、ちょっと投げてくれ」。ノーステップスローで外野フェンスを越すと、なぜか穴吹が「これがプロの肩や」と自慢していたという。

 「俺は肩だけで現役を16年やれた」と笑う定岡は、15年8月から大分・柳ケ浦高の野球部監督を務める。「プロは一芸が武器になる。チャンスはいくらでもある」。今秋ドラフトでは教え子の田中瑛斗投手が日本ハムに3位指名された。今後は「第二の定岡」の育成も待ちたい。 (相島聡司)

 ▼定岡智秋(さだおか・ちあき) 1953(昭和28)年6月17日生まれ、鹿児島市出身の64歳。鹿児島実からドラフト3位で72年に南海入団。87年の現役引退後は南海、ダイエーで1軍コーチや2軍監督を務めた。2008年から四国アイランドリーグ・高知の監督を務め、15年8月から柳ケ浦高の監督。現役通算1216試合、打率2割3分2厘、88本塁打。

レーザービーム イチロー

 右翼からの糸を引くような送球が「レーザービーム」と呼ばれるイチローも、球史に残る強肩だ。ダイエーで三塁ベースコーチを務めた定岡も「イチローのときは感覚が違った」と話す。走者を止めるか、次の塁に進めるかを判断する際に、他の外野手とは違う感覚が求められたのだという。「なかなか(手をゴーサインで)回せなかった」と振り返る。

練習で沸かせる男 羽生田忠克

鉄砲肩で知られた西武の羽生田(左)。俊足も武器だった

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 西武黄金時代で外野のスーパーサブ的存在だった羽生田忠克の肩は、球界一とも評された。秋山ですら「ばか肩だったね」と目を見張る強さで、試合前のシートノックでもノーバウンド送球でスタンドの大きな拍手を浴びた。ただ、当時の正捕手だった伊東勤は「力がある強い球だったけど、回転が不規則で捕るのに気を使ったね」とも話している。強打、名手がそろう西武では定位置奪取はならなかったが、記憶に残る選手だったのは確かだ。

秋山幸二 総合力

早く!追いつき速く!投げる 現実のプレーを徹底的に追求

 80年代に「メジャーに一番近い男」と呼ばれたのが、西武の秋山だ。通算437本塁打の強打だけでなく、中堅での広い守備範囲と、常に補殺ランクの上位に顔を出す強肩の持ち主だった。

 「あんまり刺した記憶はないな」と当時を振り返るが、89年には右翼の平野謙が21補殺、秋山が10補殺で西武勢がリーグ1、2位を占めた。翌90年には2補殺に減ったが、これは秋山の肩を他球団が警戒し、次塁を狙わせなかったためだろう。

中日との日本シリーズ第3戦で、久慈のフライをフェンスに駆け上がりながら好捕する秋山=1999年10月26日、ナゴヤドームで

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 秋山は「肩が強いだけじゃ意味がない」と話す。外野手にとって重要なのは「いかに早く打球に追いつき、いかに速く投げて、いかに相手が次の動作に入りやすい送球ができるか」。いわば総合力としての「強肩」を常に追求してきた。

 ダイエー移籍後の99年。右翼にコンバートされていた秋山は、中日との日本シリーズ第3戦で、久慈の大飛球に最短距離で追いつくと、フェンスを駆け上がって捕球。飛び出していた一塁走者も好返球で刺した。37歳で見せたスーパープレーには、名手のポリシーが凝縮していた。

 遠投は「120メートルぐらいかな」。もっとも「山なりの軌道で投げた遠投と、野球の送球は使う筋肉が違うから」と口にする。現実のプレーを徹底的に追求した「強肩」の持ち主だった。

【選考委員のつぶやき】 「上向きに投げる場面はないですから」 意識が高かった松坂大輔

 定岡、秋山の意見に共通するのは、肩の強さは「遠投の距離」とイコールではないこと。遠投は斜め上に投げれば距離を稼げるが、2人は実際のプレーで使う低い軌道にこだわっていた。

 18年前。同じような内容の言葉を、高校3年生から聞いた。99年1月、西武の新人合同自主トレ。1位指名された松坂大輔だった。キャッチボールから遠投に距離を伸ばしても、低い球の軌道は変わらなかった。

 報道陣の「いつもこうなの?」という質問に松坂は「野球で球を上向きに投げる場面はないですから」と当然のように答えていた。今回の取材を終えて、あらためて松坂の意識の高さを思い知らされた。

(次回は12月12日掲載)

 

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