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【4紙独断 野球殿堂】

韋駄天 足で魅せた男たち

2017年9月12日 紙面から

 野球は打つ、投げるだけでなく、足もまた、多くのファンを魅了してきた。スポーツ4紙の選考委員会が独断で野球殿堂入りを決める第9回のテーマは「韋駄天」(いだてん)。巨人・松本匡史、近鉄・藤瀬史朗、阪急・福本豊ら自慢の足で球史に名を残してきた男たちを選出した。 (文中敬称略)

青い稲妻 松本匡史 中学時代4番キャッチャー「第2の田淵」

ヤクルト−巨人、1回表無死一塁、松本が76個目の盗塁に成功=1983年10月18日、神宮で

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 トレードマークの青い手袋から「青い稲妻」と親しまれたのが松本。だが意外なことに、中学で野球を始めてからかなり長い間、盗塁とは縁遠かった。

 「小学校の時は柔道をやっていた。足は普通より速かったくらい」。報徳学園中で軟式野球部に入ったころも「良かったのはバッティングで3年の時は4番・キャッチャー。当時、地元の神戸新聞に『第2の田淵』と書いてもらったんです」。報徳学園高で71年に春夏連続甲子園に出場したとき、松本は2年生ながらレギュラーで、春は5番・左翼、夏は4番。そんな男が盗塁に目覚めたのは新チームになった2年秋だった。

 「足の速い同級生がいて競うように盗塁したら面白くなり、塁に出たらとにかく走った。周りに高校通算100盗塁ぐらいと言われたけど、ほとんどが最後の1年間ですね」

 プロでは歴代21位の通算342盗塁。最も印象に残っているのはプロ初盗塁だという。ルーキーだった1977年4月19日の阪神戦(甲子園)で記録。2−3と1点を追う9回、2死から土井正三の代走に送られ、3球目に二盗成功。ここで山本功児が中前打を放ち同点のホームを踏むと、チームは延長10回に2点入れて勝った。まさに値千金の盗塁となったのだが、松本の胸に何より残っているのは、試合途中、監督の長嶋茂雄に言われた言葉だった。

 「塁に出たら走れ」

長嶋監督の言葉が力

 アウトなら試合終了という緊迫の場面だったが、「状況よりも監督に『走れ』と言われたから行く。それしか頭になかった」。長嶋のシンプルな言葉がスタートを切る何よりの原動力になった。「この時の『行く』という気持ちが自分の中の原点になった」ともいう。

 「どうしたら盗塁がうまくなるか」とよく聞かれる。松本の答えは「一番はスタートすること」。現役時代は「癖を見るよりも、自分の中で行けると思ったら行くことを重視した」と、自分なりの感覚と意欲でスタートしていた。

 「盗塁阻止は相手も難しい。投球、捕手の送球、タッチなど、いろんな要素があってアウトになる。じゃあスタートすればいい。逆にけん制アウトは一番ダメと考えていた」。ベンチの指示も背中を押していた。

全部サインで走った

 「僕は全部サインで走ってます。監督が信頼してサインを出しているのだから行かないといけない」。こう話す一方、近年盗塁数が増えない現状を「最近多いグリーンライトは責任が全部自分になるから、スタートが切りづらいのでは。僕はフリーで走っていない。サインが出ると意外と気が楽になるものですよ」と持論を展開した。

 82年から2年連続盗塁王。83年は当時のセ・リーグ記録だった金山次郎(50年、松竹)の74盗塁を抜き、76盗塁した。「83年はフリーで走っていたらもう少し増えていたかも。でも、モーションを盗めたものもあったけど、走ってません。そうして成功しても、僕はサイン無視だと思うんですよね」。柔和な笑みを浮かべて、盗塁のポリシーを語った。 

 (井上洋一)

 ▼松本匡史(まつもと・ただし) 1954(昭和29)年8月8日生まれ、兵庫県出身の63歳。右投げ、両打ち。報徳学園から早大へ。2年春に当時の東京六大学リーグタイの15盗塁、通算では新記録の57盗塁(当時)。ドラフト5位で77年に巨人入団。87年に現役引退後は巨人、楽天でコーチを務めた。通算1016試合、打率2割7分8厘、29本塁打、195打点、342盗塁。

世界の盗塁王 福本豊 「ノムさんのおかげ」

 世界の盗塁王・福本は相手バッテリーとの勝負を存分に楽しんだ。「ノムさん(南海・野村克也)がピッチャーにクイックを教えた。それを破るためにピッチャーの癖を探す。あれだけ走れたんはノムさんのおかげ」と懐かしむ。

 野村の代名詞“ささやき”は、実は近鉄・梨田昌孝の方が頻繁だったようで「『(出塁したら)1球目、勝負しよう!走ってください』ってよう言われた」と言う。意外にも「マークされ、ウエストされ、それでも挑んでアウトになった時のスタンドの拍手は格別やった」。勇者(ブレーブス)の証しだ。

近鉄特急 藤瀬史朗 117盗塁のうち代走で105

 「近鉄特急」と呼ばれた韋駄天が藤瀬だ。8割超の成功率の高さもすごいが、通算117盗塁のうち代走で105盗塁は史上2位。まさしく足のスペシャリストは、入団時のエピソードからしてユニークだ。

 「大体大に進んだのも教師になって、高校野球に携わりたかったからなんです。でも採用試験に不合格。学校帰りの阪急電車で誰かが網棚に置いた新聞を、何げなく手に取ったんです…」

 大好きだった近鉄の入団テストを告知する記事を見つけた。「有名人に会えるかも」と軽い気持ちで受けたら、俊足を買われて採用された。

9回裏1死満塁、石渡がスクイズを試みるも、三本間でタッチアウトになる藤瀬。右は広島の捕手・水沼=1979年11月4日、大阪球場で

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 藤瀬自身が最も印象に残るのは「足が震えた」というプロ初盗塁だが、「究極の盗塁」と話したのは1979年の広島との日本シリーズ。「江夏の21球」で有名な第7戦の9回。無死一塁で代走に起用され、二盗が悪送球を誘い、三塁まで進んだ。藤瀬は当時も今も「サインはヒットエンドラン」と言い、だからスタートは慎重だった。だが打者は見送り「タイミングは完全にアウト」。藤瀬はワンバウンド送球に救われ、今も語り継がれる無死満塁へとつながっていく。 (渋谷真)

 ▼藤瀬史朗(ふじせ・しろう) 1953(昭和28)年7月2日生まれ、大阪府茨木市出身の64歳。桜宮高から大体大を経て、ドラフト外で76年に近鉄入団。84年引退。通算436試合、打率2割6厘、4本塁打、12打点。近鉄コーチ、管理部長などを歴任し、現在は京都府向日市の佐川印刷人事部に所属している。

まだまだいる!球界を沸かせた韋駄天たち

高木守道(右)と新人の盛田嘉哉=1971年、神戸銀行グラウンドで

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 ▼張本勲(東映、巨人など) 首位打者7回、歴代1位の3085安打の好打者は、足も速かった。通算でトリプルスリーとなる唯一の選手(打率3割1分9厘、504本塁打、319盗塁)。通算三塁打も歴代9位の72。

 ▼鈴木尚広(巨人) 一度も規定打席に到達せずに200盗塁以上(通算は228盗塁)した唯一の選手で、成功率8割2分9厘も200盗塁以上の選手でトップ。代走での123盗塁も歴代1位だ。

 ▼盛田嘉哉(中日) 名城大でのシーズン28盗塁、通算108盗塁はともに愛知大学野球リーグ新記録。71年からの4年間で出場51試合はすべて代走で、打席には一度も立たず。通算16盗塁。73年にはウエスタン・リーグの盗塁王(18盗塁)になった。

 ▼今井譲二(広島) 80年代カープの代走のスペシャリスト。11年のプロ生活で263試合に出場。62盗塁をマークした一方、打席はわずか31(5安打)。87年は36試合に出場して打席ゼロで9盗塁。

【選考委員のつぶやき】

 今回の選考委員会で盛り上がったのが、南海の本拠地だった大阪球場に伝わる「韋駄天伝説」だ。歴代2位の通算596盗塁にして、史上最高の82・9%の成功率(300盗塁以上)を誇る広瀬叔功も速かった。だが、えてして語り継がれるのは「裏の伝説」だ。

 パ・リーグ某球団の韋駄天が、乱闘で膝蹴りした。これに南海の選手が立腹。試合後にベンチ裏へ押しかけた。ところが、その韋駄天がどうしても見つからない。報復を察知し、終わるやいなやユニホーム姿のままミナミの宿舎へ脱出していたのだ。さすが韋駄天。逃げ足も速かった…。というオチでした。

(次回は10月17日掲載)

 

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