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【4紙独断 野球殿堂】

異色

2017年8月1日 紙面から

 スポーツ4紙の選考委員会が独断で「殿堂」入りを決める第7回のテーマは「異色」。日本プロ野球唯一の「左右投げ」で登録された近田豊年(南海など)、ドラフト史上最年少の15歳で阪神に指名されて入団した辻本賢人ら、記憶に残る男たちを選出した。 (文中敬称略)

二投流 近田豊年

プロ野球史上唯一の「左右投げ」投手

現役時代と現在の近田豊年の投球フォーム

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 プロ野球史上唯一の両投げ投手は、本人の「自己申告」から生まれた。1987年12月。特別入団テストで南海への入団が決まった近田は、当時の杉浦忠監督に恐る恐る伝えてみた。「実は右でも放れるんです」。これで運命は決まった。

 杉浦監督の反応は「珍しいね。投げてみろ」。利き腕の左上手からの剛球に続き、右の下手投げも披露すると、12月22日の入団会見で「左右投げ」と紹介され、連盟にも登録された。

 両投げのルーツは、故郷の高知県宿毛市の沖の島にある。小・中学校の全校生徒が十数人という離島で、本格的な野球はできなかったが、劇画「巨人の星」の星飛雄馬とテレビのプロ野球中継に夢中になった。

 島の中腹から海岸まで段々畑を一気に駆け降り、石を風に乗せて100メートル以上投げて遊んだ。太平洋の荒波が打ち寄せる海岸の岩の間をストライクゾーンに見立て、両手で石を投げ込むうちに、自由な発想が自然に膨らんでいった。

小学生で誓った「第1号」

 「なぜ両手投げのプロ野球の投手はいないんだろう? 僕が最初になってやる」。目標を「両投げ第1号」に定め、小学校の作文にもつづった。手本は左が巨人の新浦寿夫で、右が阪急の山田久志。右が下手の理由は「左右が同じ投げ方じゃ面白くない」からだった。

 土佐の自然に育まれた体力は抜群。空手で全国大会に出場し、主に卓球部と陸上部だった中学時代は砲丸投げで四国大会2位。後に100メートル走10秒8の身体能力を買われ、明徳高(現明徳義塾高)野球部に進んだ。

 甲子園では83年センバツの青森北戦で左で1イニングを投げた。社会人の本田技研鈴鹿でも左右のグラブを持ち込んで練習したが、「右で投げるタイミングはほとんどなかった」。左の最速147キロに対し、右は125キロ前後。力の差はあったが、本人は「二投流」を諦めなかった。「練習は左右で2倍やった」。同学年の山口裕二(現ソフトバンク1軍マネジャー)は「寮でも深夜まで筋トレなどをやっていた」と証言する。

両投げ用「六本指グラブ」

有名な六本指グラブを手にする近田

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 用具メーカーからは両投げ用の「六本指グラブ」も提供されたが、1軍登板は1年目の88年4月14日のロッテ戦(大阪)での1イニング(1失点)のみ。2軍での登板過多もあって骨折した左肘を秋に手術。球団がダイエーに変わった翌89年は、米国の1Aサリナスに派遣された。

 「右での公式戦登板は米国だけです。相手は苦笑いでした」。両投げを知った現地の監督が興味を持ち、右での登板を勧めてくれた。米国では近田の六本指グラブの改良版を使った両投げ投手がメジャーデビュー。近田は「先駆者」となった。

 日本の公式戦では右を披露することなく、阪神に移籍した91年を最後に現役引退。現在はゴルフのレッスンプロとして多くの教え子を抱える一方で、40歳と42歳のときに米メジャーのトライアウトに挑戦。不合格だったが、近田は「楽しみました」と胸を張る。

 日本ハム大谷は投打の「二刀流」。ゴルフは左右いずれも70台のスコアで回る近田は「少しうらやましいですね。今なら、右でもっと投げていたかも」と笑う。日本にも「二投流」の後継者が現れないだろうか−。 (相島聡司)

 ▼近田豊年(ちかだ・とよとし) 1965(昭和40)年12月11日生まれ、高知県宿毛市出身の51歳。両投げ左打ち。明徳高から本田技研鈴鹿をへて、ドラフト外で88年に南海入団。阪神に移籍した91年限りでの現役引退後は、ゴルフのレッスンプロとして兵庫県と大阪府を中心に活躍する一方、関西電力野球部のコーチなども務めた。

15歳でドラフト 辻本賢人

1軍登板なし ただ1人の昭和64年生まれ

入団会見後にガッツポーズをとる(後列左から)水落、玉置、辻本、高橋、赤松(前列左から)大橋、能見、岡田監督、岡崎、橋本

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 2004年11月17日。ドラフト会議の話題をさらったのが、阪神が8巡目に指名した辻本賢人だった。

 当時は15歳10カ月。指名は「想定外」だったコミッショナー事務局だが、辻本は米国のマタデー高校を休学中で、大学入学資格を持っていた。規定に反しないという判断を下し、晴れて史上最年少のドラフト指名が成立した。

 この4年前には映画にも出演。さらに生年月日が1989年1月6日。日本球界でただ1人の“昭和64年生まれ”のプロ野球選手でもあるなど、とにかく話題に事欠かない選手だった。

 当時監督だった岡田彰布は「年齢が年齢やから。他の同級生がドラフトにかかる時期まで、しっかりと体づくりをしてくれたらええ、と思っていた」と、大きく育てる方針だったという。

 しかし入団後は故障に悩まされ、09年に支配下を外れ育成選手に。そのオフ、1軍登板のないまま20歳で戦力外となった。「支配下選手枠に余裕があったということも大きかったな」と岡田は言う。早熟右腕の登場と、チーム事情が絶妙にマッチして誕生した異色プロだった。 (西下純)

陸上五輪選手 飯島秀雄

すべて代走で出場 117試合盗塁成功23

 陸上の五輪選手からの転身として注目を集めたのが、1969年から3年間ロッテに在籍した飯島秀雄(73)。64年東京、68年メキシコ五輪に100メートルなどで出場、100メートルで日本新の10秒1(手動時計)をマークした脚力は、代走として期待された。だが、3年間すべて代走として117試合に出場し盗塁成功は23(盗塁死17、けん制死5)。投手との駆け引きやスタートのタイミングで苦労し、この記録にとどまった。

 それでもスピードは飛び抜けていた。当時のロッテ正捕手の醍醐猛夫は「二塁から普通ならかえれない強い当たりでも彼は楽々ホームインしていた」。通算得点は46。快足が生きた場面も何度もあったという。

プロ経験なしで2軍監督 有本義明

元新聞記者

1969年4月5日、ロッテ−サンケイのオープン戦、9回裏2死一塁、代走で出た飯島秀雄が二盗に成功。これが10度目の代走出場、5度目の盗塁企図で初めての成功

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 プロ野球経験なしでダイエーの2軍監督に就いたのが、元新聞記者の有本義明だ。兵庫・芦屋高のエースとして1949年のセンバツ準優勝。慶大では内野手として活躍し、それから約40年後の93年から3シーズン、若手育成を託された。当時の担当記者によると「会社だけでなく、取材相手にも『デスク』がいる感じ。いろんな面でツボを熟知している昔かたぎの方」だったという。

【選考委員のつぶやき】

 選考委員会もさまざまな異色選手の思い出話で盛り上がった。かつてのプロ野球界の喫煙全盛期に、敢然と反旗を翻した「嫌煙王」内山智之もその一人だ。

 日本では西武、ダイエーで1997年までプレー。150キロ近い直球が武器だったが、たばこ嫌いも剛球一直線。禁煙車がない当時、窓の外に顔を出して息をするのは序の口で、両球団ですご腕を振るった故根本陸夫さんにも「たばこやめろよ!!」とかみついていた。

 たばこ臭に敏感なあまり、銘柄を百発百中でかぎ分ける特殊能力まで習得。煙から少しでも遠ざかるため、当時の寮から海を挟んだ福岡ドーム(当時)に船や自転車で通った時期もあった。今や分煙、嫌煙は社会の常識。時代を先取りした「異色」でした。

(次回は8月25日掲載)

 

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