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【4紙独断 野球殿堂】

乱闘 見ている側も血がたぎる…シナリオなき闘い

2017年6月20日 紙面から

 なぜか見ている側も血がたぎる。それが「乱闘」。1996(平成8)年5月1日に、中日の山崎武司が巨人のバルビーノ・ガルベスと闘った。89年には西武の清原和博が、ロッテの平沼定晴にバットを投げ付けた。スポーツ4紙の選考委員会が、独断で野球殿堂入りを決める第6回。今なお語り草となっている乱闘を掘り下げた。 (文中敬称略)

山崎武司VSガルベス 1996年5月1日

両軍ベンチ空っぽ

中日−巨人 5回裏無死、ガルベス(左から2人目)の投球が山崎武司(同3人目)の頭をかすめ両軍乱闘となる

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 当時の選手名鑑によるとガルベス107キロ、山崎86キロ。重量級のゴングは、19時52分に鳴った。山崎が途中でバットを手放したが、マウンドに歩み寄る。ガルベスも待たずに間合いを詰めながら、グラブを外した。

 「後から考えたらさすがに右手は大事だからね。僕は右ばかり注意していたから左が当たってしまった。こっちは首根っこつかんでヘッドロックして…。でも後ろからボコボコけられてね」

 2人で闘えたのはわずか数秒。両軍ベンチは空っぽとなり、巨大な密集ができあがった。バットを手に持ち乱入しようとする者あり、それを取り上げ遠くへ放り投げる者あり。脚本家などいなくともその場で配役が決まる。主役の山崎は、予期せぬ左のパンチをもらい、唇から出血した。

 5回の先頭打者。141キロの速球は、山崎の頭をかすめたが死球ではない。だが、当たろうが当たるまいがこの1球が偶然だとは誰も思っていなかったはずだ。恐らくガルベスは意図的に投げ、山崎も予測していた。

 「直前に小島さんが落合さんの背中に当てていたし、それまでにも伏線はあった。だから僕は『来たら行きますから』とベンチに伝えてから打席に向かったんです」

 巨人の4番も死球を受けていたが、山崎は前日にも岡島から左肘に当てられていた。さらに2週間前はコールズも死球を…。報復の連鎖。互いに怒りのガスは充満していたのだ。

 ようやく密集はほどけたが、試合は再開されない。両者退場は納得できないと長嶋監督が選手をベンチに引き揚げさせたのだ。放棄試合寸前まで長嶋は態度を硬化させたが、連盟への提訴を条件にようやく再開に応じた。中断32分。主役2人はグラウンドを去った。

 この乱闘の価値を端的に示すのが、当時の中日を率いた星野の言葉だ。

 「外国人に向かっていく。今の野球でそんなことができるやつ、誰がいる? 日本そのものがアメリカに弱いのに。オレは名古屋の大将や。江戸城の大将にケツを引いたらみんなが見てる。選手の手前、引けんだろ。だから行くんだ」

 屈強な外国人打者に日本人投手は殴り倒されるか追い回されるか…。それが乱闘の定番だった。山崎は「日本の野球をなめられたくなかった」と牙をむいた。そこに名古屋対東京、中日対読売という構図がくわわり、さらに燃える。

「牛乳謝罪」断った

 この年、本塁打王、最多勝を獲得することになる2人は、そろって球宴に出場した。当時のガルベスが牛乳のCMに出ていたことから、大豊が「あの牛乳をもっていこう」と仲介役を買って出た。だが、山崎はきっぱりと断った。ガルベスも次の対戦の最初の打席で、山崎に当てた。しかも満塁からの押し出し。山崎は言う。

 「最後まであいつとは口もきかんかったよ。今はWBC(の日本代表)で他球団でも友達感覚になっちゃうから。乱闘は…。いいことじゃないけど減ったよね」

 薄れゆく球場の緊張感。乱闘は野球の華というのは時代が許してくれないのかもしれない。 (渋谷真)

 ▼バルビーノ・ガルベス 1964年3月31日生まれ、ドミニカ共和国出身の53歳。右投げ右打ち。米大リーグ・ドジャース、台湾・兄弟を経て96年に巨人入団。この年最多勝を獲得するなどNPB通算106試合、46勝43敗、防御率3.31。2000年の巨人退団後は韓国・三星でプレーした。

 ▼山崎武司(やまさき・たけし) 1968(昭和43)年11月7日生まれ、愛知県出身の48歳。右投げ右打ち。愛工大名電高からドラフト2位で87年に中日入団。2003年にオリックス、05年に楽天へ移籍し、12年に中日復帰。史上3人目の両リーグ本塁打王、07年には打点王獲得。通算2249試合、打率2割5分7厘、403本塁打、1205打点。13年の引退後は野球解説者だけでなくカーレースにも挑戦。

清原VS平沼 1989年9月23日

バットを投げた!

 あの清原がバットを投げた。そこから突進し、ヒップアタックして走り去った。89年9月23日。夏の甲子園を制してからまだ4年しかたっていなかった。

 左肘に死球を受けたのは4回。のちに日本記録を塗り替える死球の多さは、入団時から清原を苦しめていた。直前の打席では満塁弾。激高する理由はあったが、バットを投げたことに非難が集中した。連盟は異例の即日処分。出場停止2日間、制裁金30万円だった。

 この乱闘の幕引きは、ここではない。暴行された平沼は左肩と左太ももの挫傷で全治2週間。地元の千葉では名の知れたやんちゃ坊主が、やられたままでは終われない。さすがに“場外乱闘”は止められたが、試合後の駐車場で清原を待ち伏せた。翌日の試合前に先輩の辻発彦に伴われて、清原がロッテのロッカールームを訪れた。

 「謝りにきたんですよ。近くには兆治さん(村田)や功児さん(山本)がいて怖い顔しててね。清原は涙ぐんでいたように見えました」

 これにて手打ち。平沼は2度と清原にぶつけることなく、通算の対戦打率2割に抑えこんだ。

(左)死球を受け、平沼(左)に向かってバットを投げつける清原 (中)平沼に突進! (右)清原に体当たりされ宙に浮いた平沼

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デービスVS東尾 1986年6月13日

意地の続投で完投勝利

東尾(左)に襲いかかるデービス

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 リチャード・デービス(近鉄)が東尾修(西武)に襲いかかったのは、86年6月13日。6回に右肘に死球を受け、激高した。こめかみに右ストレートを浴びせ、さらに4、5発…。もちろん退場。パ・リーグは出場停止10日間、制裁金10万円、球団も4日間の自宅謹慎処分を科した。

 東尾も殴られただけでは終わらない。顔にアザ、右足をひきずりながら続投を志願。123球、4失点完投勝利は、通算165個、与死球王の意地だった。

【選考委員のつぶやき】

暴力は絶対にいけないけど…

 今回の選考会議では「誰が最強か」という話が出た。

 A「バレンティン(ヤクルト)は4月4日の阪神戦で乱闘になった際に、阪神・矢野コーチを片手で数メートルも吹っ飛ばしたよなあ」

 B「歴史をひもとけば、武上さん(四郎。元ヤクルト監督)は“ケンカ四郎”とストレートな異名を取ったし、大沢親分(啓二、元日本ハム監督)は高校時代に審判を殴った逸話もあったね」

 C「ハマの番長(三浦大輔)はむしろ優しそうです」

 D「KKコンビがいたPL学園で、その2人が一目置いていた(というか恐れていた)のが当時の主将だった松山秀明(現ロッテコーチ)だそうな。彼の目力は今も衰えてませんよ」

 A「現役なら日本ハムの中田が強そうだな〜」

 会議の脱線は数十分に及んだ。当事者は必ず、処分される。つまり暴力は絶対にいけないはずなのに、このテの話は必ず盛り上がる。なぜだろう…。

(次回は8月1日掲載)

 

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