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【4紙独断 野球殿堂】

伝説の助っ人 数字には表れない衝撃を与えた男たち

2017年3月2日 紙面から

 幕末に太平の眠りを覚ました「黒船」と同じように、日本のプロ野球界にとてつもない衝撃を与えた男たちがいた。スポーツ4紙の選考委員会が独断で「野球殿堂」入りを決める第3回のテーマは「伝説の助っ人」。1987(昭和62)年に大フィーバーの主役となったボブ・ホーナー(ヤクルト)と、翌88年に旋風を起こした呂明賜(巨人)を選出した。 (文中敬称略)

現役バリバリのメジャーリーガー ボブ・ホーナー

コンパクトで強いスイングから豪打を連発したホーナー

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 1987年5月。神宮球場は異様な興奮に包まれていた。話題の主は開幕後の4月に契約を結んだヤクルトの新助っ人ホーナーだ。前年はブレーブスの中心打者として、27本塁打、87打点。オフにフリーエージェント(FA)となり、年齢も29歳と若かったが、年俸高騰を嫌う球団オーナーの結託により、契約がまとまらず。日本プロ野球史上最高(当時)の年俸3億円で、ヤクルト入団が決まった。

 現役バリバリのメジャーリーガーは、5日のデビュー戦で阪神・仲田幸司から右翼ポール際に技ありの1号。そして、翌6日に伝説が生まれた。「俺の時にいきなりベールを脱いでね。特に3発目はすごかった」。3被弾した阪神のエース池田親興は振り返る。

 初回。抜けたスライダーを左翼席上段に運んだ。5回は内角高めの直球を再び左翼席へ。7回は外角高めの直球をバックスクリーンに打ち込んだ。池田が「3本を合わせた飛距離?400メートルは飛んでるよ」と笑うほどの強烈な弾道だった。

 9日の広島戦(佐世保)でも2発を放ち、来日4試合で6本塁打を含む11打数7安打7打点、打率6割3分6厘。「ホーナー狂騒曲」の第1楽章はセンセーショナルだった。顔を赤くして強打を連発する姿に「赤鬼」のニックネームも付いた。

 ホーナーの印象を、池田は「体の回転で打つ理想的なスイング。右手で球に(最短距離で)パンチを打つような感じでパチンとね」と話す。特に内角高めが得意で、同僚のマット・キーオには「ノーラン・ライアンだって彼の内角には投げないよ」と言われたという。

 背番号と同じシーズン50発への期待も高まったが、さすがに来日当初の勢いは続かなかった。池田は「額面通りの力を1試合目から発揮したのはすごかったが、膝元に穴があった」と話す。夏場にはスイングで腰も痛め、球宴も出場辞退した。

 カード別で最も低い打率2割7分に抑えた広島の捕手、達川光男は「内角の好きなコースの近くをボールにして、遠くに逃げるシンプルなやり方。紙一重じゃけどね。外ばっかりに逃げると、踏み込まれて駄目なんよ」と攻略法を明かす。

 徹底マークと取材攻勢に遭いながらも、93試合で打率3割2分7厘、31本塁打。規定打席不足での30本塁打以上はセ・リーグ初だった。球団は契約延長を打診したが、1年でメジャー復帰。帰国後の著書「地球のウラ側にもうひとつの違う野球があった」はさまざまな意味で話題を呼んだ。

 日本でプレーした179日間は、日本球界に大きな足跡を残した。池田は「800グラム台のバットや軸足に重心を置くスイングは、研究の対象になった。日本選手に『軽いバットを強く振る』という感覚が芽生え、打撃が変わる一つのきっかけになったのでは」と話す。

 米メジャーへの関心も高めた。「(日米の壁に)ホーナーが穴をあけたのかもしれない。彼のような現役バリバリのメジャー選手が日本に来たことで、多くの日本人が米メジャーに目を向ける予兆を感じた」。池田の予感は的中し、現在は多くの日本人メジャーリーガーが活躍している。

 この伝説には後日談がある。同年オフに発売された野球ゲームだ。「俺が何を投げてもホームランなんだよ」。悔しさのあまりメーカーに電話し、本人と明かすと相手に爆笑されたという。「ゲームソフトを送ってくれたけど、もうかった気はしなかったなあ」。その笑顔には今も悔しさが宿る。 (相島聡司、久保安秀、森淳)

 ▼ボブ・ホーナー 1957年8月6日生まれ、米国カンザス州出身の59歳。アリゾナ州立大時代に2度来日し、78年は6試合で6本塁打。同年のMLBドラフトの全体1位でブレーブスに入団し、1年目に23本塁打で新人王。88年にカージナルスでメジャー復帰したが、左肩痛などのために引退した。メジャー通算は1020試合、打率2割7分7厘、218本塁打、685打点。

大きなフォロースルー アジアの大砲 呂明賜

ヤクルト戦で初打席初本塁打となる3ランを放った呂明賜=1988年6月14日

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 ホーナーが日本を去った翌88年、今度は「アジアの大砲」が日本球界を揺るがした。巨人の呂明賜だ。広島の捕手だった達川は「デビューしたころはびっくりしたぞ。いきなりホームラン打って」と振り返る。

 当時の外国人選手の出場選手登録は2人までだったが、6月13日にクロマティが死球骨折。翌14日に1軍昇格し、ヤクルト戦(神宮)に「6番右翼」で出場した。初回にギブソンから初打席初本塁打となる3ランを左翼席に運んだ。

 大きなフォロースルーが特徴のスイングが猛威を振るい、デビューからわずか9試合で7本塁打を量産。この年に開場した東京ドームを豪快なアーチで沸かせた。この年16本塁打を放ったが、内角球に対応できず、成績が低下。当時の巨人監督だった王貞治は「弱い内角を攻められて、悩むようになった。内を打とうとして体が開き、外も打てなくなる悪循環だった」と振り返る。その後もデビュー当時の輝きは取り戻せず、91年限りで巨人を退団した。

 ▼呂明賜(ろ・めいし)1964年10月30日生まれ。台湾・高雄市出身の52歳。台湾代表の捕手として小学校時代から世界大会で優勝するなど実績を残し、社会人野球でも活躍した。88年から91年まで巨人、92年から2000年まで台湾プロ野球でプレー。日本通算は113試合、打率2割6分、18本塁打。

プライドもメジャー級 ウィリー・デービス

ヘルメットを飛ばして本塁へ突進するデービス。右上は三塁コーチ与那嶺監督=1977年5月14日、ナゴヤ球場で

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 MLB通算2547安打(来日時点)のウィリー・デービスが中日に在籍したのは77年。すべてにおいて超一流。中でも大きなストライドの走塁が武器で、5月14日の巨人戦(ナゴヤ)で、史上4人目の「ランニング満塁本塁打」を放ったシーンを記憶するファンも多いはずだ。

 プライドも超一流。日本投手の変化球攻めに苦しむデービスに、与那嶺監督がアドバイスしたところ「オレを誰だと思っているんだ。オレはウィリー・デービスだ!」と一喝したという。そんなトラブルも原因で打率3割6厘、25本塁打を打ちながら1年で退団。帰国後には両親を脅迫して逮捕されたが、何と日本刀と手裏剣を手にしていたそうだ。

左肩に小錦が… エリック・ヒルマン

「肩に小錦…」発言で多くのファンの記憶に残るヒルマン(左)

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 97年から98年にかけて巨人に在籍したエリック・ヒルマンは、球史に残る珍言を残した。「左肩に小錦が乗っかった感じだ」。95年から2年間、ロッテで計26勝。しかし、2年5億円で移籍した巨人では、左肩の違和感などで97年は2試合6イニングしか投げず0勝1敗。そして翌98年2月12日にキャンプで訴えた左肩の痛みを体重270キロの小錦で説明した。結局1試合も投げず、6月1日に解雇。当時のオーナー・渡辺恒雄は「金をやるから出ていけ」と激怒したというが、ある選手は「野手の間では、おもしろいこと言うなぁという感じだったよ」と懐かしそうに話した。

【選考委員のつぶやき】

 バースだ、ホーナーだ、いやクロマティもいるぞ…。選考委員会は、大いに盛り上がった。しかしテーマは「伝説」。数字に表れないインパクトは不可欠だ。

 97年にメジャー通算1400安打の実績で阪神入りしたマイク・グリーンウェル。キャンプ中に一時帰国。4月末に再来日したと思ったら、5月上旬に「神のお告げ」だと帰国して、ファンをあぜんとさせた。

 その2年前、メジャーで本塁打王、打点王の実績を持つケビン・ミッチェルがダイエー(現ソフトバンク)入りし、開幕戦初打席満塁弾という衝撃デビューを果たしたが、こちらも無断帰国を繰り返し解雇。塗り薬をなめるなど、打棒よりは奇行の人だった。

 “そっち方面”の伝説の方が、記憶に残るなあ…。という結論でした。

(次回は4月11日掲載)

 

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