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【4紙独断 野球殿堂】

山本昌のスクリューボール 無名の同僚野手に握り聞いた

2017年1月24日 紙面から

 スポーツ4紙合同企画第3弾!選考委員会が独断で「野球殿堂」入りを決定する。今回のテーマは「魔球」。山本昌広(51)を名球会に導いたスクリューボールと、佐藤義則(62)が「宝」と呼ぶヨシボールを選出した。魔球誕生の秘話をたっぷりとご賞味あれ。 (文中敬称略)

1988年の春 “島流し”で運命の出合い

1994年10月6日 阪神戦で完投し、19勝目を挙げた山本昌=ナゴヤ球場で

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 運命の出合いは1988年春。星野仙一率いる当時の中日は、米国フロリダのベロビーチでキャンプを張っていた。対外的には留学。だが、山本昌に言わせれば「島流し」。帰国するチームを空港で見送り、ドジャース傘下のルーキーリーグへの合流を命じられた。

 現地で面倒を見てくれたアイク生原は、メジャーリーガーが練習するメイン球場へ山本昌を連れて行き、こう命じた。

 「ヤマ、この球を覚えろ。すごいピッチャーになれるぞ」。目の前ではすごいピッチャーが投げていた。フェルナンド・バレンズエラ。当時のメジャーを代表する左腕で、中でもスクリューボールが最大の武器だった。

 「とても同じ人間が投げているボールの軌道だとは思えませんでした。覚えろって言われても、覚えられるわけがない」

山本昌のスクリューボールの握り

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 1軍未勝利の5年目が、世界屈指の魔球を習得できるはずがない。尻込みした2カ月後、山本昌の前に幸運の神が舞い降りた。その名はジョゼフ・スパグニョーロ。のちに大成したわけでもなければ、そもそも投手でもない。ルーキーリーグのチームメートだった。ある日の試合前。なぜか野手のスパグニョーロとキャッチボールをした。ふざけて投げてきたのがスクリューボールだった。

 「これならオレにも投げられるんじゃないか。そう思ったんです」。バレンズエラには聞けなかった握りも、無名の同僚になら聞けた。たまたま登板日だった。ブルペンで1球だけ。いきなり試合で投げた。空振り三振。「いつクビになってもおかしくなかった」という山本昌の野球人生が、一気に開けた瞬間だ。

 「このボールがなければ、ここまでやれなかった。相性も良かったんですね。僕のように股関節が開く投げ方に合う球種だったんです。体に合うボールと出合えたということです」。なぜ自在に操れるのか。その理由が理解できたのは、のちに骨格の仕組みから筋肉、関節の動きまで学んでからだった。

「中指で変化をつける」

投球フォームも披露

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 チームは優勝を争っていた。報告を聞いた星野は日程を前倒しして帰国を命じた。誰もが別人のような投げっぷりに目を見張った。初勝利を含む5勝。あまりに鮮烈な米国土産だった。

 投げ方はストレートに近く「中指で変化をつける」。右打者からは逃げるように落ち、左打者には食い込む。投球全体におけるスクリューボールの割合は25から30%。球速は速球から5キロほど遅く、変化球の中では最も速く、最も多く投げた。「自信をもってどのカウントでも投げられた。特に左を抑えられたのはスクリューのおかげ」。左打者の通算被打率は、右よりも2分以上低い2割4分2厘。しかもブルペンでもほとんど練習不要だったという。

 「ストレートは一生懸命調整していましたけどね。スクリューはその必要がなかった。優等生だったんですね」

 人生を切り開き、支え、名球会に導いてくれた代名詞。現役最後のマウンドも、スクリューボールで締めた。(渋谷真)

 ▼山本昌広(やまもと・まさひろ) 1965(昭和40)年8月11日生まれ、東京都出身の51歳。左投げ左打ち。日大藤沢高からドラフト5位で84年に中日入団。主なタイトルは最多勝(3度)、最優秀防御率、沢村賞など。通算581試合、219勝165敗5セーブ、防御率3.45。白星、登板など史上最年長記録を数多く打ち立て、2015年限りで現役を引退した。

「俺の宝」 大学時代に編み出す

(左)1995年、現役時代の佐藤義則(右上)ヨシボールの握りを見せる佐藤義則(右下)「握りだけじゃ分からんよ。離す時のひねりが大事なんだから」と言って手首を動かした場面

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 現在は名伯楽としても知られる佐藤の現役時代の代名詞が「ヨシボール」だ。「俺の宝。この球のおかげで三振が取れた」。1985年にテレビのスポーツニュースで命名された。

 日大時代に三振を取れる球種を模索。フォークは肘が痛くなり「カーブの延長線上」という握りを独自に編み出した。うまく操るコツは「人さし指で押し込んで引っ掛けるイメージ。手首のひねり、肘から先を速く振ることが大事」と明かす。

 当初は「自分で『引っ掛け』と呼んでいた」球の特徴は、打者が直球とカーブとの違いを見分けにくかった点。「真っすぐの軌道からスッと落ちる。130キロ台で、だな」。球速も非常に重要で、軌道は現在の縦のスライダーにも近かった。

 40歳代になって腕の振りが弱くなり、「宝」を投げられなくなった。だから「(95年の)ノーヒットノーランではほとんど投げていない。あれは感覚が難しい」。教え子で、あらゆる球種を操るダルビッシュや田中でようやく「似たものが投げられた」というほどの魔球だった。 (谷光太郎、相島聡司)

 ▼佐藤義則(さとう・よしのり) 1954(昭和29)年9月11日生まれ、北海道出身の62歳。右投げ右打ち。函館有斗高(現函館大有斗高)から日大を経てドラフト1位で77年に阪急に入団し、新人王。最多奪三振(2度)、最多勝、最優秀防御率などを獲得した。通算165勝137敗48セーブ、防御率3.97。現在はソフトバンク1軍投手コーチ。

「折れちゃうから」 V9戦士は練習用バットで打席

1984年、大洋時代の平松政次

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 大洋のエースとして活躍、先日は野球殿堂入りした平松政次の武器はカミソリシュート。巨人戦は歴代2位の51勝。V9戦士たちも手を焼いた。「分かっていても打てないし、見るのも嫌だった。吉田(孝司)がやけに汚いバットで行くなと思ったら練習用。『どうせ打てないし、折れちゃうから』と話していた」と高田繁。黒江透修は「一瞬真ん中に見えるがそれがインコースにくる。長嶋(茂雄)さんが『あれは打てませんね〜』と言ったら、川上監督が『おまえが打たなきゃ誰が打つんだ』と怒ったこともあった」と振り返った。

【選考委員のつぶやき】

 魔球の定義とは?誰もが思い浮かべるのが「消える」というキーワード。つまり「狙っていても打てない」ということだ。佐々木主浩、野茂英雄のフォークボール、伊藤智仁や松坂大輔のスライダーなどはこの条件に当てはまる。

 選考委員会では激論の末、「習得までのドラマ性」や「オリジナリティー」を加味し、山本昌、佐藤、平松を選定。しかしある野球人が口にした定義も印象深い。

 「打者が何で打ち取られたかわからない。首をひねりながらベンチに戻る。あれが魔球ですよ」。まだ日本に「カットボール」という球種が定着する前。武田一浩や川上憲伸が先駆者だった。小さく、鋭く曲がるため、打者は直球を仕留めたと思っていた。いやはや魔球談義は尽きませぬ・・・。

 

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