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【ボクの思い出STADIUM】

後楽園球場

2016年12月28日 紙面から

 最終回は後楽園球場を取り上げる。プロ野球史上最高のコンビである王貞治と長嶋茂雄の「ON」が活躍し、前人未到のV9を成し遂げた巨人の本拠地。あの「756号」も生まれた後楽園の魅力を、王が熱く語った。 (文中敬称略)

栄光が刻まれた舞台

「特別な場所」

数々の名場面を生んだ後楽園球場も最終戦となった西武との日本シリーズ第5戦でその役目を終え、東京ドームにバトンタッチする=1987年10月30日

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 東京の下町で生まれ育った「世界の王」は、少年時代に見た光景を鮮やかに覚えている。

 「球場に行って、明るいグラウンドが見えた瞬間にパッと引き込まれた。子供心にも後楽園っていうのは特別な場所でしたよ」

 開場は王が生まれる3年前の1937(昭和12)年。東京初のプロ野球専用球場として人気を集めた。場所は東京中心部の小石川にあった砲兵工廠(こうしょう)跡地。立地条件も極めて恵まれていた。

 2リーグ制となった50年は巨人、国鉄、毎日、大映、東急の5球団が使用。「後楽園スタヂアム50年史」には「スケジュールの大部分を相乗り興行で消化した」とある。中でもダントツの人気と観客動員を誇ったのが、「打撃の神様」川上哲治らを擁した巨人だった。58年の長嶋、59年の王の入団と、それに続く「V9」が絶頂期だった。

 「後楽園と言ったらプロ野球、後楽園と言ったら巨人軍なんだよね。ジャイアンツは憧れだったし、高校卒業後は後楽園というのが、僕の野球人生でしたから」。王の野球人生において、後楽園は幾度となく晴れ舞台となった。

巨人V9「永久に不滅です」756号

初アベック弾

(右)世界記録となる756号本塁打を放ち、大きく両手を広げて一塁に向かう巨人の王貞治=1977年9月3日(左)引退セレモニーで「わが巨人軍は永久に不滅です」とファンにあいさつする巨人・長嶋茂雄=1974年10月14日

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 59年の天覧試合で初のONアベック弾。さらに「僕は756、868も後楽園。714、715もそうかな」。通算本塁打でベーブ・ルースに並んだ714号、抜いた715号。世界新記録の756号、公式戦最後の868号もそうだ。

 中でもハンク・アーロンを抜いた756号を巡る“狂騒曲”は今も語りぐさだ。日本中が王のバットに注目し、77年9月3日のヤクルト戦で右翼席に打ち込んだ。記念のボールは、5日連続で後楽園に通い詰めた埼玉県川口市の男性が拾った。

 王の本塁打は、多くが右翼席上段まで飛んだ。「スタンドの中段にある通路を越すことを昔からね。球とバットの関係は変わらないけど、あとは自分の思いでそういうところまで持っていく」。信念のこもった放物線だった。

 ONを擁した巨人は、65年から前人未到の9年連続日本一を達成する。長嶋入団時の58年に148万人だった巨人の観客動員数は、V9最終年の73年には276万人とほぼ倍増していた。

打撃部門24冠

念願の9連覇を成し遂げ、胴上げされる巨人・川上哲治監督=1973年11月1日

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 V9期間中のONは打率、本塁打、打点の3部門で計24冠。「後楽園スタヂアム50年史」には『ONの打棒と川上哲治監督采配による巨人軍の戦力向上は(中略)当社球場の営業収入を大幅に伸長させ(中略)全国他球場の営業成績をはるかにしのいだ』とある。

 長嶋と三遊間を組んだ黒江透修は、本拠地の意外な「アシスト」も明かす。「他球団の選手は天然芝にかなり戸惑ったんじゃないかな」。65〜75年は、内野にも天然芝が張られていた。不慣れな他球団の選手はよく守備のミスを犯したという。多くの企業の広告が印象的だった電光掲示板など、最新の設備を誇った後楽園だが、美しい内野天然芝も名物であり戦力だった。

 テレビの全国中継も多く、スポンサーの賞品と賞金の多さも有名だった。黒江は「本塁打は1万円だったかな。盗塁で下着の詰め合わせをもらったときは、九州から来た母親が驚いた」と話す。

 74年に長嶋が「巨人軍は永久に不滅です」という名言を残したのも後楽園。王も80年にバットを置いた。王は「長嶋さんのときも俺のときも、他の球場だったら、ちょっとぼやけてしまうかな。やはり後楽園はメッカなんですよ」と振り返る。

50年歴史に幕

東京ドームへと生まれ変わった後楽園球場=2007年9月28日、本社ヘリ「あさづる」から

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 87年に50年に及ぶ歴史の幕を下ろし、隣に建設された東京ドームにその役割を譲った。同年は王が巨人監督として初優勝し、巨人も史上初の観客動員300万人を突破した。王は後楽園の魅力をこう話す。

 「ファンと選手が近かったですよ。スタンドのお客さんと視線が同じレベルなんだよね。バットケースからバットを取るときも打席から帰るときも、お客さんがすぐそこにいる。臨場感や一体感というか、同じ時間を共有していることを感じやすかっただろうね」

 V9とほぼ重なったのが高度経済成長期。多くの日本人はONに希望を託し、ONもその期待に応えた。プロ野球が生んだ最大のスーパースター2人が躍動した後楽園の記憶は、いつまでも色あせることはない。 (相島聡司)

【アラカルト】後楽園球場

(右)後楽園球場と周辺の娯楽施設=1957年11月撮影

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 ▼所在地 東京都文京区後楽1−3−61

 ▼開閉場 1937年9月11日〜87年11月8日。50年にナイター設備が設置され、76年は日本で初めて人工芝がグラウンドに敷設された

 ▼広さ 両翼90メートル、中堅120メートル(閉場時)。黒江いわく「狭いと言われることもあったが、そんな感じはしなかった。ボールも飛ばない時代だった」

 ▼収容人員 内野席3万78人、外野席1万2259人の計4万2337人(閉場時)

 ▼高射砲 戦時中は2階席が高射砲の陣地となり、42年4月の空襲では実際に発射された

 ▼ONゲート ONの引退後、球場の第1ゲートが「王ゲート」、第3ゲートが「長嶋ゲート」と命名された

 ▼キャンディーズ 78年4月4日にキャンディーズがお別れコンサートを開催。人気絶頂のアイドルグループが「普通の女の子」に戻った

 ▼娯楽の殿堂 周辺には多くの娯楽施設が設けられ、49年に後楽園競輪場が完成(72年に廃止)し、場外馬券場も設けられた。55年開園の遊園地、室内アイススケート場なども人気を呼んだ

【回想録】元祖「失言男」!?藤原満

 日本シリーズ史上に残る「名言」が出たのは、東京ドーム2年目の89年だった。近鉄が巨人に3連勝して王手をかけた第3戦後に先発で勝利投手となった加藤哲郎が「(パ最下位の)ロッテより弱い」と話したというものだ。

 発言の真意はともかく、発奮した巨人が4連勝で逆転日本一になったのは有名な話。実は巨人がV9を達成した73年の日本シリーズでも、ある発言が流れを変えていた。明かしたのは南海の三塁手だった藤原満だ。

 「ヒーローインタビューで『阪急の方が強い』と言って、そこから4連敗。ワシが最初やな」

 この年の南海は、当時最強といわれた阪急をプレーオフで破って優勝した。余勢を駆って大阪球場での第1戦も、8回に藤原の2点打で逆転勝利。ところが第2戦を落とすと、後楽園球場でも3連敗した。

 「ワシもその後は全然やったし、シーズンで活躍したジョーンズが二日酔いでミスしてな。(当時は)デーゲームなのに、銀座でようけ飲んどったらしいんや」と藤原は43年前の“失言”を振り返る。大阪球場もミナミのど真ん中にある球場だったが、銀座の魅力は別格だった?

(最終回)

 

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