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【ボクの思い出STADIUM】

旧下関&豊楽園球場

2016年11月2日 紙面から

 2リーグに分立した1950(昭和25)年。中日が開幕戦を戦ったのが山口県の旧下関球場だ。源平の昔から豊かな歴史に彩られた本州最西端の港町は、大洋ホエールズの本拠地でもあった。関門海峡の対岸の北九州市にあった豊楽園球場とともに取り上げる。 (文中敬称略)

下関球場で行われた大洋−巨人戦に詰め掛けたファン=1960年6月29日撮影

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阪神に完封勝ち

 8球団で産声を上げたセ・リーグは、3月10日に開幕。平和台、下関に4球団ずつに分かれ、2試合を行った。中日は下関の第2試合で阪神と対戦。5−0で下し、記念すべき「セ・リーグ初勝利」を飾った。翌11日付の中部日本新聞は『中日緒戦に勝つ 清水の巧投、阪神を完封』の見出し付きで10行の記事を掲載している。

 『(前略)文句なしに中日快勝。清水は例によってスローボールで後藤、藤村の主力打者をおさえ、最後まで二塁ベースを踏ませぬ快投振りだった』

 監督は天知俊一。この試合も先発9人中6人と、明大閥で結束していたチームは優勝候補の一角にあげられていた。対する阪神は分立時の対立から主力を大量に引き抜かれ、戦力は低下。本塁打増を狙って導入された、反発力の高い「ラビットボール」を使用しても、清水秀雄に4安打に封じられた。

(左)日本一になった1960年に下関市で行われた大洋の優勝パレード(右)ユニホームの左袖を飾る「(は)」の文字。写真は1960年代前半に大洋でプレーした箱田淳

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 戦いの舞台となった下関は、DeNAの前身、大洋と縁の深い球場だ。球団創設されたのが50年。60年と横浜時代の98年に日本一に輝いたが、ともに本拠地だけでなく下関でも優勝パレードが行われた。

 捕鯨や遠洋漁業の一大基地として栄えた港町。『大洋はのう、昔下関におったんやけえの』。下関市の小学校教諭、佐竹敏之(57)は自著「大洋ホエールズ誕生前!」(文芸社)に、父の言葉を記している。98年のパレードに約6万人が詰めかけたのも、下関が球団発祥の地だからだ。

1年で身売り

 下関では戦前から社会人の林兼商店野球部が活躍した。同商店は45年に大洋漁業(現マルハニチロ)へと社名を変更。49年11月、下関市に「まるは球団」を設立(50年3月に大洋に変更)した。

 佐竹によると、同社社長の中部兼市は「鯨一頭余分に取れば、選手の補強なんか大したことない」と豪語していたという。当時は捕鯨で多大な収益があり、球団設立に要した約6000万円も容易に調達できたようだ。球場は49年11月に完成。市民にも出資を呼び掛け、同年9月の市報「下関」には『下関球場・株式募集』や『ひろく一般市民各位の出資を願う』の見出しが躍っている。

1985年に解体されるまでプロ野球ファンを沸かせた下関球場

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 中日戦に先駆けて行われた50年開幕の第1試合は、大洋のエース今西錬太郎が国鉄を完封。勝利で客席を沸かせた。翌11日に松竹の岩本義行が、中日戦でセ・リーグ第1号本塁打となる満塁弾を放つなど、歴史の舞台となった下関だが、球場経営は振るわず、下関商高の「下商野球部百年史」には早くも50年11月に「3200万円で市に身売りし、『下関市営球場』へと変わった」とある。

 佐竹は「当時の下関市の人口は約20万人。地方都市には興行的に限界があった」と話す。フグやウニとともに下関の名物と称されたホエールズだったが、ナイター施設のなかった当時の平日の集客数は約2000人程度しかなかった。

苦戦続いた経営

 53年に松竹との合併で大洋松竹ロビンスとなり、本拠地を大阪と下関とした。動員力から下関球場では2試合しか行わなかったが、苦戦は続いた。54年の洋松ロビンスを経て、再び大洋ホエールズとなった55年に本拠地を川崎球場に移した。大洋漁業の本社もすでに東京へ移転していたが、発祥の地である下関を重視。本拠地移転後も下関球場では年間数試合の公式戦やオープン戦を開催し、50年代には日米野球も人気を呼んだ。

 99年に関門海峡をはさんだ福岡県を本拠地とするダイエー(現ソフトバンク)が日本一になって以降、下関でもタカ党が主流を占めるようになったという。「横浜ベイスターズ下関ファン集いの会」で役員でもある佐竹は「親会社も変わり、優勝パレードももうないかもしれませんが、ずっと応援します」と笑った。 (相島聡司)

豊楽園球場

小倉市(現北九州市)にあった豊楽園球場の球場開き

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 下関市とは関門海峡をはさんだ対岸の北九州市では、戦前から門司鉄道管理局(現JR九州)や八幡製鉄(現新日鉄住金八幡)などがしのぎを削っていた。戦後はプロ野球人気も急上昇。1948年7月には小倉市(現北九州市小倉北区)に新球場が産声を上げた。現在のJR小倉駅北側にあった豊楽園球場だ。48年から57年まで計70試合が開催された。

 51年に球団合併で西鉄ライオンズが誕生すると、公式戦開催の機運がさらに高まり、西鉄戦が6試合、翌52年には12試合(平和台球場は18試合)開催され、準本拠地的な存在となった。

 西鉄総務広報部のアーカイブ担当、吉富実(62)は「当時の経営陣に『沿線人口が200万人いないと商売にならない』という考えがあった」と話す。55年の人口は福岡市域の約59万人に対し、北九州市域は約87万人。ファン拡大の狙いがあった。

 小倉駅の移転に合わせ、57年を最後に取り壊しが決定。翌58年に完成した小倉球場(現北九州市民球場)に役割を譲った。最後の公式戦は、57年にV2を果たした西鉄「野武士軍団」のシーズン最終戦だった。

【アラカルト】下関球場(旧)

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 ▼所在地 山口県下関市向洋町

 ▼解体 49年11月完成。85年に解体され、跡地は下関市立市民病院となっている

 ▼広さ 両翼88.4メートル、中堅115.8メートル

 ▼公式戦 50〜62年、65〜71年、73〜75年にセ・リーグ75試合、パ・リーグ3試合の計78試合が開催された

 ▼新球場 88年完成。下関北運動公園にある。規模の小さな第二球場が隣接している。90年3月11日の大洋とのオープン戦で、近鉄のルーキー野茂英雄が「初勝利」をマークした

【回想録】基満男「伊藤博文ゆかりの春帆楼でチーム全員な」

 本拠地移転後も下関と「ホエールズ」の絆がいかに強かったか。優勝パレード以外にも、それを物語るエピソードがある。79年から現役最終年の84年まで大洋でプレーした基満男(69)は往時をしのぶ。

 「オープン戦で下関に行くと、フグをごちそうになったのが一番の思い出。伊藤博文ゆかりの春帆楼でチーム全員でな。さすが大洋漁業のおひざ元と実感したよ。本当にわがチームという感じ。港が目の前で朝一番に船の汽笛で起こされたけどね」

 ふぐ料理公許第1号の老舗で、飲めや歌えやの大騒ぎ。下関は大洋を愛し、大洋は下関を大切にした。まさに古き良き時代だった。

(次回は12月28日掲載)

 

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