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【ボクの思い出STADIUM】

広島総合&広島市民球場

2016年7月12日 紙面から

「お荷物球団」と言われた創設当時から、カープを支えてきた広島市民。その本拠地だったのが広島総合球場と広島市民球場だ。あふれんばかりの情熱は、1975(昭和50)年の「赤ヘル旋風」で報われる。歓喜の初優勝への道のりで、中日との激戦で何が起こったのか−。今では考えられぬ熱い男たちがそこにいた。 (文中敬称略)

強烈な西日

(上)後楽園球場でタッチプレーをめぐり乱闘になる星野仙一(左から2人目)ら中日ナインと広島ナイン (下)乱闘の原因となった広島・三村敏之と中日・新宅洋志のタッチプレー

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 瀬戸の夕なぎ−。夏の風物詩だ。昼間には吹いていたはずの海風が、夕刻になるとピタリとやむ。ちょうどナイターが始まる時間帯だ。

 とんでもなく暑い上に、左翼ポール後方からは強烈な西日が一塁ベンチを照らす。後に巨大な可動式の日よけを設置したほどで、これが暑さをさらに増す。今はもうなくなった広島市民球場を懐かしむ人は、必ずこの景色がぼやけるほどの暑い夏がセットになっているのではないだろうか。

念願の照明

 球団創設時からの本拠地だった広島総合球場にはナイター設備がなく、収容能力も不足していた。中心部にナイターができる本格球場を−。市民の悲願が実現したのが1957年だった。

 誕生時の広島は親会社を持たない市民球団(広島野球●楽部、55年解散し「広島カープ」に移行)で、弱かった。創設当初は勝利チームが入場者収入の7割を得るというルールがあり、収入が見込めない広島は、選手への給与も滞り、連盟からは再三、解散や大洋(現DeNA)との合併を求められた。

金を作ろう

 しかし、金は無くとも地元ファンからはすでに圧倒的支持を得ていた。「(資金が)ないのなら、作ろう」。石本秀一初代監督が旗振り役となり、チームの存続を県内各地で訴えて回った。有名な“樽(たる)募金”であり、その延長線上には、新球場建設の夢も描かれていた。

 創設25シーズンで3位が1回(68年、根本陸夫監督)、あとは4位以下という弱小だったが、『できの悪い子ほどかわいい』を地でいく愛されようだった。

審判監禁も

 それは時として、ファンの暴走行為を呼んだ。総合球場時代には、不利な判定をしたと受け止めたファンが、審判員を監禁したこともあった。市民球場でも、たびたび乱入事件があったが、有名なのはやはり、75年9月10日の中日戦だろう。

 この年から今にもつながる『赤ヘル』を採用。赤ヘルを提言したジョー・ルーツ監督から古葉竹識監督への交代劇が春先にあった。しかし、26年目を迎えたチームは、快進撃を続けた。

 前年、巨人のV10を阻止した中日、阪神との三つどもえの首位争いは、9月に入っても、熱気を帯びていた。首位が広島、1ゲーム差の2位に阪神、さらに2ゲーム差で続く中日との一戦には、荒れる要素が詰まっていた。

不穏な空気

 初回から与那嶺要監督が塁審に猛抗議。先発・星野仙一は衣笠祥雄、大下剛史、水谷実雄に死球をぶつけ、早々と場内には殺気が満ちていた。3回には自ら本塁打を放ち、広島ベンチに向けてガッツポーズ。三塁ベンチ上の広島ファンに両手を広げて“挑発”までした。

 3点リードの9回、疲れの見えた星野仙は1死から3連打を浴び、降板した。1点差に迫られた2死二塁。ここで山本浩二が鈴木孝政から中前打したが、本塁を狙った三村敏之は憤死した。しかし捕手・新宅洋志の少々激しいタッチプレーに三村が激高。試合は終わったが、両軍ナインによる乱闘が始まった。さらに暴徒と化した2000人がグラウンドになだれ込み、中日ナインに襲いかかった。

6人が負傷

 翌11日付中日スポーツは「星野仙 剣が峰で火の玉」という見出しで勝利と事件の模様を報じている。近藤貞雄コーチが右太ももを裂傷。ローン・ウッズが右手、右脚の打撲、大島康徳も顔面を殴打された。さらに井上登、森下整鎮両コーチ、竹田和史の6人が負傷。試合中から「いいピッチングをしたら、あとでどうなるかわかっているな」と脅された上に、酒をかけられた星野仙は「こんなところで試合ができるか!」と憤った。

機動隊出動

広島のファン2000人が暴徒化。試合後も中日のバスを取り囲む=1975年9月10日、広島市民球場で

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 広島球団からの要請で、県警機動隊員200人が出動。装甲車に先導されて、ようやく宿舎に向かった。翌日の同カードは「安全に自信が持てない」と中止となった。12日にはセ・リーグの鈴木龍二会長が「正しい応援を」と異例の声明を発表する事態となった。

 ただこの時に暴徒と中日ナインの間に入り、体を張って止めようとしたのがゲイル・ホプキンス、リッチー・シェーンの広島の外国人選手だったことは伝えておきたい。25年間耐え続け、ため込んだファンの愛情が、過激な形で一気に噴出。その思いは10月15日、ついに初優勝で報われた。

【アラカルト】広島市民球場

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▼開場 1957(昭和32)年7月22日(2010年9月1日閉場)

▼所在地 広島市中区基町5−25

▼規模 両翼91.4メートル、中堅115.8メートル、収容3万1984人

▼グルメ ファンに愛された名物グルメが「カープうどん」と「むさしのおむすび」。マツダスタジアムでも、長蛇の列が途切れない

▼くぎ付け 90年5月12日の巨人戦では忍者姿の“くも男”がバックネットによじ登った。また05年にはボール犬ミッキーが大人気に

郷土の誇り

(上)解体工事中の広島市民球場 (下)右中間スタンドの残る広島市民球場跡地=2011年8月30日撮影

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 郷土愛の象徴がカープ。育ててきた場所が文字通りの市民の球場だった。喧噪(けんそう)と情熱、栄光に満ちた球場は今、右中間スタンドの一部を残して更地となっている。 (西下純)

【回想録】テスト入団後に初代監督・石本秀一の目に留まる

現役時代の長谷川良平=1962年撮影

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 広島総合球場は今、コカ・コーラウエスト総合グランド野球場と名を変えている。いわば「カープのゆりかご」のような場所だった。球団誕生の1950(昭和25)年から57年7月まで本拠地として機能。市民球場完成後も、キャンプ地や練習場として使用された。

 50年にこの球場で入団テストを受け、初代監督・石本秀一の目に留まったのが愛知県半田市出身の長谷川良平。後にエースとして197勝を挙げ、65年からは監督を務めた。石本はヘッドコーチとして長谷川を支える時代があった。

 66年のオフ。同年に投手として入団した水谷実雄に石本が声を掛けた。「おまえ、ちょっと打ってみい」。訳が分からぬまま、水谷は打撃練習に参加。投手は安仁屋宗八だったと記憶している。

 「そしたら、あの伝説の石本さんが『ええやないか。バッターでいけよ』って言ってくれてなあ」。それが、広島黄金時代のスラッガー・水谷の誕生秘話だ。

 また2年先輩にあたる安仁屋も「入団のあいさつに行ったら白石(勝巳)監督に『ホンマに野球やっとったんか?』って言われてね」。そこから奮起して主力投手となる。それも「総合球場でしごかれたおかげ」という。

 広島県出身、廿日市高校時代から同球場で試合をしていたという山本浩二は「渡し船で通った記憶があるよ。懐かしいなあ」と目を細める。カープのスターたちの多くが、紛れもなくこの地で生まれ、育った。

【アラカルト】広島総合球場

(上)「広島県営球場」「県営総合球場」などとも呼ばれた広島総合球場=1951年撮影 (下)当時のままの姿をとどめる広島総合球場(現コカ・コーラウエスト広島総合グランド野球場)

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▼完成 1941年12月

▼所在地 広島市西区観音新町2丁目11−124

▼規模 両翼92メートル、中堅113メートル、収容人員1万3000人

▼超満員? 熱狂的なファンは時に2万人を超えたとも。その場合はファウルグラウンドにロープを張り、収容した

▼モンローも 米大リーグ・ヤンキースのスター選手、ジョー・ディマジオがマリリン・モンローとの新婚旅行で54年2月11日に訪問

▼樽募金 球団存続のために市民に訴えたのが樽募金。石本秀一初代監督の発案で、入り口に2つ設置された

(次回は8月31日掲載)

 

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