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【ボクの思い出STADIUM】

藤井寺&日生球場

2016年5月10日 紙面から

 猛牛が暴れていた。いてまえ打線が猛威を振るっていた。1950年から2004年までパ・リーグを盛り上げた近鉄の本拠地・藤井寺球場と、準本拠地・日本生命球場を取り上げる。 (文中敬称略)

関西の高級住宅地

近鉄−巨人の日本シリーズで盛り上がる藤井寺球場=1989年10月21日撮影

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 近鉄藤井寺駅。文教地区であり、河内地方有数の高級住宅地でもある。藤井寺球場の完成は1928(昭和3)年。周辺には「大阪教材園」という、子供たちの自然学習に使われる公園もあった。

 そんな街に50年、2リーグ分立とタイミングを合わせて近鉄パールス(後にバファロー、バファローズ)がやってきた。終戦から5年。戦後復興も進み、人々は娯楽に目を向け始めていた。期待と歓迎の中で誕生した近鉄だったが、街との共生はなかなか進まなかった。理由の一つは、弱かったことだ。Aクラスといえば54年の4位(8球団制)と69年の2位だけ。文字通りのお荷物球団は、ファンの支持を得ることができなかった。

ナイター問題紛糾

小学校、中学校やマンション(後方)が建つ藤井寺球場跡地=大阪府藤井寺市で、本社ヘリ「まなづる」から

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 もう一つの理由がナイター照明の問題だ。51年には、早々と大阪球場にナイター設備が完成し、平日の藤井寺での試合が減る。58年にはナイターのできる日本生命球場を準フランチャイズ化、一層、藤井寺球場の存在価値が薄まった。ただし日生球場も広さや収容人員に難があり、「藤井寺でナイターを」というのは球団の強い思いでもあった。

 優勝争いした69年オフのドラフトで、甲子園のスター・太田幸司(青森・三沢高)を指名。「幸ちゃんブーム」も追い風として、翌年、球団はナイター設備建設方針を打ち出した。

 ところがこれに近隣住民が猛反発する。74年に近鉄に入団した栗橋茂(64)は、初めて藤井寺を訪れたときの戸惑いを記憶している。電柱や壁など、町中に住民の声が書かれていた。「『ナイター反対』とか、『ママ、うるさくて僕、勉強できないよ〜』とか、貼り紙があってねえ」。文教地区ならではの拒絶反応だった。

「あんた、打たんねえ」

 一方、応援するファンは愛情の裏返しとして、きついヤジを飛ばす。空席の目立つスタンドでは、そのヤジが選手にちゃんと届いてしまう。

 72年入団の、現楽天監督・梨田昌孝(62)は「近所の高校に通う女子高生から『あんた、打たんねえ』と言われたり、氷が飛んできたりしたこともあったなあ」と在りし日の藤井寺に思いをはせる。

 「関西には鉄道会社(の球団)が4つもあった時代。『近鉄電車は2階建て、南海電車はボロ電車』なんて聞こえてきた。懐かしいねえ」と梨田は笑う。

鈴木啓示300勝舞台

 訴訟にまで発展したナイター設備は84年4月6日、ようやく完成する。1カ月後の5月5日、生え抜きの大エース・鈴木啓示が藤井寺で史上6人目の300勝を達成。88年には仰木彬が監督に就任した。西本幸雄監督時代(74〜81年)に続く黄金期を迎えたこの頃が、球場の絶頂期でもあった。

 85年には初のオールスター、89年には初の日本シリーズも開催されたが、97年に完成した大阪ドーム(現京セラドーム大阪)にフランチャイズは移転した。藤井寺球場は役目を終える。2006年に取り壊され、現在は文教地区らしく、学校の敷地となっている。 (西下純)

【アラカルト】藤井寺球場

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 ▼完成 1928年5月25日(2005年閉場)

 ▼所在地 大阪府藤井寺市春日丘3−1−1

 ▼規模 両翼91メートル、中堅120メートル、収容人員3万2000人(異説あり)

 ▼反対運動 ナイター設備の土台を組んでいた72年、住民訴訟が起こり、完成する84年まで10年以上、寂しく鉄骨土台が立っていた

 ▼日本記録 近鉄といえば強力打線が印象深いが、やられる時も豪快だった。86年8月6日の8回、西武に打たれた1イニング6本塁打は現在も日本記録

 ▼ベテランの金字塔 近鉄・新井宏昌は92年7月8日に2000安打、オリックス・佐藤義則は95年8月26日にノーヒットノーランを記録。いずれも40歳での快挙だった

暴走ダイエーファン「生卵事件」

(上)ダイエーナインの乗ったバスには怒りがおさまらないファンから生卵が投げつけられた=1996年5月9日撮影(画像は一部加工)(下)ファンの怒声に不安そうな表情でバスに向かう王監督=1996年5月9日撮影

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 日本生命球場の誕生は1950(昭和25)年。完成当初からプロ野球も使用したが、ナイター設備ができた58年から近鉄の準本拠地となった。

 最後のプロ野球公式戦であり、今も語りぐさなのが96年5月9日、近鉄−ダイエー(現ソフトバンク)戦。王貞治監督の就任2年目のダイエーは、開幕から苦戦を強いられ、この日も先制しながら4連敗。9勝22敗で最下位に沈んでいた。

 試合中からモノが投げ込まれ、予兆はあったが、敗戦の瞬間に沸点に達した。怒れるファンがグラウンドになだれ込み、ダイエーナインはベンチ裏に待避。その後、乗り込もうとしたバスまで包囲され、周到に準備していた生卵が投げつけられるという「事件」に発展した。

 当時の打撃・走塁コーチで、王を守ろうと身をていしてファンの前に立ちはだかった高橋慶彦(現オリックス打撃コーチ)は「大阪での(ダイエー)ファンは、まだ南海色が強かったよね」と振り返る。感傷に浸るどころか強烈なエンディングだった。 (西下純)

【アラカルト】日生球場

(上)ナイター照明が暗い日生球場はカメラマン泣かせだった=1996年撮影(下)ショッピングモールが建つ日生球場跡地=大阪市中央区で、本社ヘリ「まなづる」から

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 ▼完成 1950年6月28日(97年閉場)

 ▼所在地 大阪市中央区森ノ宮中央2−1−55

 ▼規模 両翼90.4メートル、中堅116メートル、収容人員2万500人

 ▼所有者 日本生命が、同社野球部などアマチュア野球開催地として建設。その後も大学、高校の大会に使用された。閉場後の関西アマ球界は球場不足に悩まされている

 ▼照明 大阪、甲子園に続いて58年にナイター設備完成も、暗くて栗橋いわく「コウモリが飛んでいた」

【回想録】栗橋茂「スタンドで焼き肉するファンもいたね。係員が飛んでいってたけど」

 近鉄黄金期に主力打者として活躍した栗橋は、現在、藤井寺駅近くでスナック「しゃむすん」を営んでいる。

 「レフトスタンドで、しちりんに火をおこして焼き肉するファンもいたね。係員が飛んでいってたけど」

 在りし日の藤井寺を語る栗橋には、日生での思い出も多い。大阪の官庁街近くという立地条件では、中堅まで116メートルという大きさしか取れなかった。入団時の栗橋は「信じられないくらい守備範囲が広かった」という阪急・福本豊から「センターに打っても、ヒットにならへんで」と脅されていたが、74年9月16日、山田久志から福本の頭上を越えるプロ初本塁打(サヨナラアーチ)を放っている。

 これは狭くて得したエピソードだが、左翼手としての守備では困ったことも・・・。長打力のある打者が立つと「フェンスに張り付いて守るんだけど、もう僕の真横には相手のファンがいるからめちゃくちゃヤジられたよ」と苦笑いで振り返った。グラウンドとスタンドを隔てる垣根が、今より低い時代だった。

(次回は6月14日掲載)

 

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