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【ボクの思い出STADIUM】

西宮球場

2016年3月16日 紙面から

 職業野球の草創期からドラマを生み、ブレーブスの本拠地として勇者たちが駆けた阪急西宮球場。ここで不滅の大記録が誕生したのは、1971(昭和46)年7月17日の球宴だ。伝説の41球。江夏豊(阪神)の9者連続三振を振り返る。 (文中敬称略)

全パ−全セ 3回裏全パ2死、阪神・江夏は阪急・加藤を三振に仕留め9連続奪三振を達成=1971年7月17日撮影

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うなるような直球

 有名な「江夏の21球」の8年前。「41球」の舞台となったのが西宮だった。全セの先発投手だった江夏は、投げては3イニングを9者連続三振。打っても3ラン。遊撃手として投球を見ていた藤田平(阪神)の目には、今も球道が焼き付いている。

 「うなるようなホップする球。直球と分かっていても、顔のあたりのボールさえ手を出していた。球場の1球ごとの盛り上がりと、それに応えようと踊るように投げる姿が印象的やったね」

「捕るな!」の叫び

 1回は有藤道世(ロッテ)、基満男(西鉄)、長池徳二(阪急)。2回は江藤慎一(ロッテ)、土井正博(近鉄)、東田正義(西鉄)。そして3回も阪本敏三(阪急)、岡村浩二(同)から三振を奪い、9人目は球宴初出場の加藤秀司(同、現中日コーチ)だった。カウント1−1からファウルゾーンへの飛球に、江夏は「捕るな!」と捕手の田淵(阪神)に叫んだ。

 「この話はオールスターが来るたびにインタビューされたよ…。江夏とは同い年でね。高校2年(加藤がPL学園、江夏が大阪学院大高)のときには練習試合もした。そのときからすごかった。天才やった。あのときも全部真っすぐ。最後は頭になかった高めの真っすぐを空振りしたのを覚えています」

 のちに名球会入りする加藤をして、天才と言わしめる。中堅から見ていた谷沢健一(中日)は「飛んでこないな、すげえなという感じだった。レギュラーシーズンとは全然違った」と振り返る。2回。長嶋茂雄(巨人)が甲高い声でこう言った。「ユタカ、これ全部行けるぞ」。誰もが大記録の予感を早くから感じていたようだ。

直線距離3キロほど

 西宮球場は、同じ市内にある甲子園とは直線距離で3キロほどしか離れていない。工業地帯を縫う「大衆の脚」が阪神なら、上流階層が多く住む山の手の「ハイカラな鉄道」が阪急だった。両社のライバル関係は職業野球にも反映された。阪急電鉄創始者の小林一三が、球場建設を命令したのは35年。阪神の球団設立を聞きつけたからだった。阪急西宮北口駅の駅舎の真上に建てよ−。すでに24年に完成していた甲子園に負けたくなかったのか、小林の構想は壮大だったが、さすがに当時の技術では難しかった。場所は同駅の南東の農地に落ち着いた。

 号令からわずか1年半、着工から5カ月後の37年4月末に完成。阪急文化財団の学芸員・正木喜勝(38)によると「この速さは、もともと小林翁に“その気”があって、主要な土地買収は進んでいたからと推察されます」という。

(上)1995年当時の西宮球場 (下)西宮球場跡地の再開発で誕生した西宮ガーデンズ(左)=2014年撮影

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初の二層スタンド

 完成当初の西宮球場はシカゴ・カブスのリグリーフィールドなどを参考にし、内外野天然芝。日本初の二層式スタンドなど斬新なアイデアを採り入れた。第二次大戦では鉄傘を接収されたが戦火は逃れ、45年12月にプロ野球再開試合を行ったのも、翌夏に高校野球が再開されたのもこの球場だった。53年にはナイター設備、78年には人工芝導入、82年は電光掲示板設置と、時代に応じて成長してきた。

 西宮を本拠地とした阪急ブレーブスは、67年に悲願の初優勝を遂げると、以後12年間で9度のリーグ優勝、75年からは3年連続日本一と黄金期を築いた。しかし、本業の路線距離では大きく水をあけ、野球でも勝っているのに、人気だけは江夏、田淵らスターを擁した阪神を超えることはできなかった。

 88年、オリックスに身売り。96年に最後のプロ野球(阪神対広島)が行われ、その後は競輪やアメフットなどに使用していたが2002年、その使命を終える。現在は西日本最大級のショッピングセンター「阪急西宮ガーデンズ」に様変わりしている。 (西下純)

 

【アラカルト】西宮球場

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 ▼完成 1937年4月30日

 ▼所在地 兵庫県西宮市高松町14−30

 ▼規模 両翼91.4メートル、中堅118.9メートル、収容人員4万人(開業当初は5万5000人)

 ▼本拠地 阪急以外にも48年から2年間は、大陽ロビンスも本拠地とした

 ▼放棄試合 71年7月13日の阪急−ロッテ戦の7回、江藤のハーフスイング(三振)をめぐってロッテが抗議。判定が覆らなかったことに納得できず、試合再開を拒否。史上6度目にして現時点では「最後の放棄試合」となった

 ▼無安打無得点 名古屋軍(現中日)が、球団史上初のノーヒットノーランをやられたのが40年7月6日の沢村栄治(巨人)。41年10月27日には森弘太郎(阪急)にもやられた

 ▼セ・リーグ初試合 2リーグ分立後、初めてセ・リーグの公式戦が行われたのが91年8月24日。夏の甲子園で本拠地を明け渡している阪神と中日が戦った。種田、落合が本塁打を放った中日が4−2で勝利

 ▼野球以外も 有名なのは競輪。49年に第1回西宮競輪が開催された。さらに83年には新外国人・バンプ、福本豊と競走馬の50メートル走、宝塚歌劇団の運動会、アメフットからコンサート、軍事パレードなど、あらゆるイベントが行われた

【回想録】立浪は88年、球宴史上2人目の快挙達成

高卒ルーキーが初打席初安打

全パ−全セ 8回表全セ2死、代打立浪和義が中前に安打を放つ、投手津野浩=1988年7月24日撮影

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 江夏が大記録を打ち立てた17年後の球宴で、華麗なるデビューを飾ったのが立浪和義(中日)だ。88年7月24日。8回2死で代打として起用された新人は、津野(日本ハム)の3球目の141キロを中前に打ち返した。高卒ルーキーとしては、球宴史上2人目の初打席初安打だった。

 「18歳で出させてもらって、当然周りは先輩だらけ。とにかく緊張したのを覚えています」

 ヤングスター賞に選ばれ、賞金10万円とカラオケセットをゲット。当時の紙面には「小遣いにします」というコメントが載っているが、緊張感は相当なものだったようだ。ただ、立浪にとって救いは地元・大阪に近い球場だったこと。

ファンスをよじ登り、ロッテ・弘田の打球を好捕した阪急・山森=1981年9月16日撮影

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 「プロに入る前に、阪急の試合を観に来たこともありましたから。なじみはあったんですよ」

 その立浪が「西宮といえば真っ先に思い浮かぶ」と話したのが、山森雅文(阪急)による「ザ・キャッチ」だ。81年9月16日のロッテ戦。弘田の左翼への大飛球に背走し、ラッキーゾーンの金網に右足を掛け、左足をバーの上に乗せ、本塁打となるはずの打球をつかみ取った。2年後に、日本人として初めて米国の野球殿堂入りを果たしたビッグプレーだった。

(次回は4月20日掲載)

 

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