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【ボクの思い出STADIUM】

鳴海&洲崎球場

2016年1月27日 紙面から

 球場に歴史あり−。かつて強者(つわもの)どもが投げ、捕り、打った名球場がある。そのドラマを掘り起こし、紹介する4紙合同企画。第1回は「日本初のプロ野球試合」が行われた鳴海球場(愛知県)と、前代未聞の「満潮によるコールドゲーム」があった洲崎球場(東京都)を取り上げる。 (文中敬称略)

1950年代の鳴海球場=1958年7月、本社ヘリ「新鷹」から撮影 (下)球場の形を残す名鉄自動車学校=名古屋市緑区鳴海で、本社ヘリ「おおづる」から(川柳晶寛撮影)

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巨人と金鯱対戦

 『日本最初の職業野球戦』。1936(昭和11)年2月10日の名古屋新聞は、大きな見出しと記事、そして3枚の写真でほぼ1ページを割いている。破格の扱いは、この試合がもつ歴史的な意味を伝えている。

 その前日の9日、鳴海球場で金鯱軍−東京巨人の試合が行われた。米国遠征へ出発する巨人の壮行試合(3連戦)。これが「日本初のプロ野球試合」と位置付けられている。2年前に結成されていた巨人と全米、あるいはアマチュアの試合はあったが、巨人の相手となるプロチームはまだなかったからだ。

お値打ち入場料

 当初は2月1日の予定だったが、降雪のため延期。さらに8日も雨天中止となり、9日が球史に刻まれることになった。天丼1杯40銭という時代の入場料は、指定席が1円50銭、外野席は50銭とリーズナブルだった。

 藤本定義監督率いる巨人は、沢村栄治がすでに大エースとして君臨していた。4番はのちの初代三冠王・中島治康、三塁手は水原茂だった。

 対する金鯱軍は産声をあげたばかり。監督が二出川延明。前年まで巨人に在籍していたが、監督としてよりも「オレがルールブックだ」との名言を残した審判として有名だ。主将の島秀之助も、後に審判に転身。こちらは42年5月24日、史上最長の延長28回(名古屋−大洋戦)の球審を務めた。遊撃手の濃人渉は、その延長28回では大洋の2番打者としてフル出場。戦後は中日、ロッテで監督を務めた。

愛称「愛電球場」

 主戦投手は内藤幸三。当時「右の沢村、左の内藤」と称された本格派で、この試合でも7回から登板し、巨人打線を封じている。試合は序盤から金鯱打線が爆発。2番手で登板した沢村をも打ち砕き、10−3で勝利を収めている。先述の名古屋新聞は『鳴海球場に揚る歴史的歓呼』と手放しの喜びようだ。

 愛知郡鳴海町は旧東海道の宿場町として栄え、桶狭間古戦場にもほど近い。ここの自社所有地に「東の神宮、西の甲子園に負けない球場を」と愛知鉄道(現名古屋鉄道)が、総工費36万円を費やして建設した。完成は27年。中学時代にはよく観戦したという中日新聞社最高顧問の大島宏彦によると「春になると花が咲いてきれいな球場でした」。外周には桜並木、土手の外野席も春はお花畑のようになった。

両翼は106メートル

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 驚くべきは「愛電球場」と呼ばれた初期のサイズだ。両翼106メートル、中堅136メートル! 戦後に縮小されるまで、国際規格をも超える広さだった。42年8月の新愛知杯争奪戦で、最優秀選手に選ばれた名古屋軍の古川清蔵(93)も「広かったね。思いもせんかった賞金を100円もらって、それをもって京都に遊びに行ったんです」と思い出を語っている。

 そんな鳴海には31年にルー・ゲーリッグがきた。34年にはベーブ・ルースもプレーした。戦後の51年には杉下茂が投げ、直後に引退を表明するジョー・ディマジオを含む全米選抜に打ち込まれた。あまたの名選手が踏んだのと同じ土の上に、球児として立ち、何度となくスタンドからも観戦したのが成田治(83)だ。

 「私はディマジオは生で見たんです。それとよく覚えているのは東西対抗(47年)。私にとって初めて見るプロ野球でしたから。赤バットの川上(哲治)も青バットの大下(弘)もいました。それはそれはものすごい人でね。いつ入れるのかと思うくらい、周りに人が並んでいました」

薄かった地の利

 花咲き乱れる美しさがあった。世界に誇る広さもあった。ただ、地の利が薄かった。当時は名古屋市編入前。48年には中心部に近い場所に「中日スタヂアム」が完成した。鳴海は高校野球と中日2軍の本拠地として使用されながら、徐々に影を薄くしていく。それでも杉下は54年に「日本一になれたのは鳴海育ちの選手がいたから」としみじみと話す。今も地元で暮らす成田は「あの球場は史跡なんです」と保存と啓蒙に奔走する。跡地に立つ銘板が、職業野球がこの地で夜明けを迎えたことを静かに教えてくれる。(渋谷真)

【アラカルト】鳴海球場

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 ▼所在地 愛知県愛知郡鳴海町(現在は名古屋市緑区鳴海町)

 ▼完成 1927(昭和2)年10月。球場開きは愛知一中、愛知商、名古屋商、明倫中、熱田中、東海中が集まって行われた

 ▼収容能力 完成当初は2万2500人。2度の改修をへて4万人規模に。増設されたスタンドは甲子園の「アルプス」にならって「伊吹スタンド」と呼ばれた

 ▼乗車券で入場 中等学校の試合で多く使用されたが、完成当初は愛知鉄道(現名鉄)の乗車券を見せれば入場できたため、近隣の住民も短区間の乗車券をわざわざ購入したとか

 ▼スキーも 39年には北陸地方から雪を運搬し、スキー大会を開催。ほかにも相撲大会、体操会場として使用されたことがある

 ▼閉鎖 プロ野球は53年が最後。58年の高校野球秋季愛知県大会で幕を閉じた

史上唯一洲崎は満潮を理由に試合が終了

1938年の試合風景。東京・洲崎球場は満潮時になると外野が水びたし。遠征チームの名古屋軍にはベンチがなかった

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 職業野球が誕生した1936(昭和11)年。わずか2カ月の工期で完成した球場が東京の下町にあった。現在の江東区、東京メトロ東西線東陽町駅付近にあった洲崎球場だ。

 前代未聞の珍事件の舞台となったのは38年3月15日、巨人と金鯱軍のオープン戦だ。当日は快晴。なのにダブルヘッダー第2試合は5回終了時にコールドゲームとなった。理由は「満潮によるグラウンド水没」。そのようすは当時の都新聞に大きく報じられている。水浸しのグラウンドで選手らがたたずむ写真を載せ、「満潮時の出水で海水はダイヤモンドまで押し寄せる珍現象のため」と説明している。

 97年刊行の「江東区史」によると、球場があったのは「海抜60センチの埋め立て地」。こんな立地だから、満潮のたびに海水が押し寄せた。

 「島さんが『よく水が出たが、湿った程度じゃなくビチャビチャだった。外野の方から出てきた』とお話ししていたのを聞いたことがあります」と話すのは野球殿堂博物館のスタッフ。島とは金鯱軍の外野手から審判員に転じた島秀之助で、この試合は塁審だった。

 前出の江東区史でも「スタンドにカニがはっていた」「グラウンドの中から貝がらが出てきた」など、水に関する話は盛りだくさん。職業野球公式戦は38年6月12日が最後。37年に後楽園球場ができたこともあり、その使命を終えた。 (井上洋一)

【アラカルト】洲崎球場

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 ▼突貫工事 1936年8月24日に着工し、10月14日に完成した

 ▼遊郭 36年11月初開催の公式戦は大いに盛り上がった。遠方なのに一番乗りだった男性は、近くの遊郭に泊まったことを「仮名」で告白。それを国民新聞は「この手なら寝過ごす心配なし」と、しゃれっ気たっぷりに報じている

 ▼実施したリーグ戦 116試合(36年21試合、37年92試合、38年3試合)

 ▼沢村3連投 36年の年度日本一の行方は、12月の巨人とタイガースの決定戦に持ち込まれた。この3連戦に沢村栄治が3連投。○●○で初代日本一に輝いた

 ▼伝説 37年は5月に沢村が、7月にスタルヒンがそれぞれノーヒットノーランを記録

【回想録】「名鉄自動車学校」に残る球場の面影

宇野勝は“突撃訪問”

 鳴海球場の跡地は、現在「名鉄自動車学校」となっている。スタンドの一部が使用され、上空から見る地形は球場のまま。教習コース内には銘板も設置されているが、球場の使命を終えてから58年。その歴史を知らない人は増えている。

 「父からも、祖父からも聞いたことがありませんでした」。先祖代々、名古屋市緑区で暮らす中日の大島洋平だが、何度も近くを通った場所でベーブ・ルースがプレーしたのは初耳だった。

 だが、そんな球史を小耳に挟み、名鉄自動車学校をアポ無しで訪問していたスター選手がいた。宇野勝だった。

 「そうそう。何回か行ってみたんだよ。そんな歴史があるのなら、自分の目で見ておきたいと思ってね」。かすかに面影の残る跡地に立ち、ベーブ・ルースやジョー・ディマジオの打撃に思いをはせたのかもしれない。

(次回は2月17日掲載)

 

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