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【特選!レジェンド校】

日本一の戦術 東海大相模 原辰徳

2018年12月18日 紙面から

 夏は1915年の第1回大会から、高校球児が熱い戦いを繰り広げてきた甲子園。球児にも、見守る人にも、大勢の人に愛されて100回もの歴史を重ねてきた。この企画の最終回にあたり、その魅力を東海大相模(神奈川)時代に4度甲子園に出場した原辰徳(60)=巨人監督=に聞いた。高校時代の思い出、監督であり父であった原貢との思い出を振り返ってもらい、さらには未来の球児へ向けたメッセージももらった。 (文中敬称略)

失敗したら終わり

 夏の甲子園に、原辰徳は1974年の第56回大会から3年連続で出場した。数多くの思い出がある中で1年夏の初戦、土浦日大(茨城)戦は、今でも強烈な印象として残っている。

1年夏の3回戦・盈進戦の試合中、円陣で原貢監督(手前左)の指示を聞く原辰徳(中央)=1974年8月16日、甲子園球場で

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 大会屈指の好投手・工藤一彦(のち阪神)が相手。「5番・三塁」で出場し、2回裏の第1打席で中前打を放って甲子園デビューを飾ると、0−0で迎えた6回1死二、三塁ではチーム初得点となる中前適時打を放った。ただ、強烈な印象は自らのバットではない。父であり、監督でもあった原貢が繰り出した作戦に衝撃を受けた。

 終盤に逆転され、1点ビハインドで迎えた9回2死から9番の鈴木富雄が左前打で出塁。1番の杉山繁俊につなぐと、盗塁のサインが出た。「サインを見て『うわ〜』と思った」と原。失敗したらゲームセット。3年生は高校野球の終わりを告げてしまう。まさに、これ以上ない崖っぷちで出されたサインに、背中が震える思いだった。

 それでも、1ボール2ストライクからの4球目に鈴木が見事に二盗を成功させると、杉山が中前へ同点打。そして、延長16回にサヨナラ勝ちした。「あと1球」の状況から成功した二盗が、勝利を引き寄せたのだ。

監督としての基盤

 「いまだに、自分の中でこれ以上の戦術はないと思っている。勇気ある戦術です。後のミーティングで(貢)監督は『ウチで一番脚の速いランナーだ。ここでやらなきゃ、いつやるのか。それに懸けたんだ』と言っていましたね。その時は、自分が後に監督になるとは思っていないが、実際に監督になって、あのシチュエーションでのあのワンプレーは自分の礎、基盤となっている。あの時と比べたら、戦術、用兵で結構思い切ったことができるな、と」。ぎりぎりの場面で父が振るったタクトが、後にプロ野球の世界で名将となる原の原点となった。

 甲子園に心ときめく思いもした。「初めて行って、一番感動したのは開会式の入場行進の時。あの音楽を聞きながら、いざライトからグラウンドに入ると、帽子がフワッと浮いている感じがした」。1年夏は準々決勝で定岡正二(のち巨人)を擁する鹿児島実に延長15回の末、4−5で敗退。翌日、兵庫県芦屋市内の宿舎から新大阪駅へ向かうバスの車窓から甲子園が見えると「すごくいい場所だった。また戻ってくる」と思ったという。

あふれる甲子園愛

 念じた通り、2年春夏、そして3年夏と出場。夏は、3年間で戦った8試合全てで安打を放った。通算打率は4割以上をマーク。愛して、心躍らせた大舞台で堂々たる足跡を残した。

 父・貢との「親子鷹」で歩んだ原にとってもかけがえのない舞台だった甲子園は、これまで多くの人を魅了し、熱狂させてきた。なぜここまで愛されたのか。こんな問いかけに、こう答えた。

 「長い歴史の中、先人、先輩の方々が築いてきた甲子園という最高の舞台。予選を勝ち抜いてきた高校野球の選手にとっては甲子園が全てだと思う。高校野球は、その1試合の勝ち負けで天と地みたいな差が出る。そういう環境の中、全力で戦っている姿が魅力になっているのでしょうね。勝って泣き、負けて泣きだからね」

 青春時代のど真ん中に全てを懸けて、ひたむきに戦う−。自らの経験も踏まえ、こう話した原の思いには多くの人が共感するだろう。

 そんな甲子園も、夏は節目の第100回大会が終わり、新たな時代に突入する。連載の最終回にあたり、原に未来の球児へ、未来の高校野球へ向けたメッセージをお願いした。すると、こう答えた。

高校野球は腕試し

高校時代の思い出や未来の球児へ向けたメッセージを語る原辰徳

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 「まず、高校野球はもちろん勝った負けたというのはあるが、腕試しの場と思って戦ってほしい。高校野球をする16、17、18歳は途上の選手であり、そういう意味では、どういう結果が出たとしても糧としてほしい」

 さらには、選手の体調面を考えたルールづくりの必要性も訴えた。「この時期は技術だけでなく、体も途上。今年から始まったタイブレークも選手の体調を含めて考えたことと思うが、成長過程の体というのを考えて大人がルールを決めていかないと、と思う。球数でも何日がかりで300球、400球、500球になるのは、果たして途上の選手でどうなんだというのはある。その辺のルールは、ドクターといろいろ考えてやっていく時期だと思う」

 そして最後に、胸に抱くこんなアイデアを口にした。「高校野球は教育の場でもある。だから、1人でもレギュラーが増えるよう、DH(指名打者)制を使ってほしい」

少年は野球界の宝

 もう少し詳しく、こう続けた。「守備、走塁にはまだ自信がないが、バッティングは自信があるからDHなら、という選手はいると思う。1年の時は守備がうまくなくても、鍛えていってうまくなっていく可能性だってある。少年というのは可能性を多く持っている。そして、そういう人が集まっている。もちろん、ピッチャーのバッティングがいいから私たちは9人で戦います、というなら、それもあり。でも、1人でもレギュラーが増えるようにしてもらったら、野球界全体で子どもたちの可能性が広がる。大事な宝物になる。そういう甲子園であってほしい」

 自らも甲子園に憧れ、心躍らせ、胸を熱くして戦った。だから思う。1人でも多くの選手が甲子園の舞台に立ち、甲子園でプレーする喜びを味わい、野球を愛してほしい、と。それが原の願いでもある。 (井上洋一)

 ▼原辰徳(はら・たつのり) 1958(昭和33)年7月22日生まれ、福岡県出身の60歳。東海大相模では2年春の準優勝が甲子園の最高成績。東海大を経てドラフト1位で81年に巨人入り。主に4番打者として6度のリーグ優勝と3度の日本一に貢献。81年に新人王、83年に打点王と最優秀選手。95年限りで引退。通算成績は1697試合で1675安打、打率2割7分9厘、382本塁打、1093打点。2002年に巨人の監督に就任し、1年目に日本一。翌年に辞任したが、06年から再び指揮を執り15年限りで退任するまでリーグ優勝7度、日本一3度、通算947勝(712敗)。09年の第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本代表監督を務め、世界一に輝いた。今オフ、3度目の巨人監督に就任。

 ▼東海大相模 1963年開校の私立校。甲子園出場は春夏計20回(春10回、夏10回)で通算勝利数は春23勝、夏18勝。春は2000年と11年、夏は1970年と2015年に全国優勝。主なOBは石井昭男(中日2軍打撃コーチ)、津末英明(元巨人など)、若林弘泰(東海大菅生高監督)、森野将彦(中日2軍打撃コーチ)、菅野智之(巨人)、小笠原慎之介(中日)、柔道五輪金メダリストの山下泰裕ら。

【プラスワン】「おやじに負けるなよ」高校時代の自分に伝えたい言葉

1975年春のセンバツ大会直前、原貢監督から打撃指導を受ける原辰徳(手前)

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 今年の夏前、巨人が東京ドームの主催試合で高校野球にちなんだイベントをした時のこと。「高校時代の自分に声をかけるとしたら、どんな言葉になりますか」という質問に選手が答える姿が大型ビジョンで紹介された。田口麗斗は「もっと練習しろ」と苦笑いし、坂本勇人は「よく頑張ったな」と言った。今回、原に同じ質問をすると、少し考え、こう答えた。

 「おやじに負けるなよ」。さらに、こう続けた。「おやじイコール監督。それだけ厳しい時間だったということ」と。

 父・貢は半端なく厳しかった。東海大相模に入学する際、「他の選手と力が五分五分なら使わない。6対4でも補欠。7対3で初めてレギュラーを考える」と覚悟を求められた。愛のムチという言葉があった時代。「他の選手が1発ならおまえは3発だ」と言われ、実際はそれ以上だったのも有名な話だ。

 「どっかに理不尽さを感じながらやっていた感じだった」という原は、高校野球生活を終えると、父から秘めていた思いを告げられた。

 「家に帰って2人きりになって、こう言われた。『辰徳、おまえ、3年間よく頑張った。俺もきつかった。でも、辰徳に厳しくすることでチームの和が保たれる。そういう信念だった』と。そう言われて、ウルウルっと来ましたね」。父・貢との「親子鷹」で過ごした壮絶な日々は、原にとって、何物にも代え難い「宝物」であることだろう。

(最終回)

 

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