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【特選!レジェンド校】

屈指の“愛され高”が球史に刻んだ 大阪インパクト 大体大 浪商

2018年11月27日 紙面から

浪商−上尾 9回表2死一塁、起死回生の同点2ランを放った牛島和彦がガッツポーズで一塁を回る=1979年8月9日、甲子園球場で

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 選手権は、大阪から始まった。1915年、豊中市だった。その後に鳴尾浜、甲子園と主舞台は兵庫県に場所を移すが、全国的には「甲子園=大阪」のイメージが、まだ根強い。その代表格が、戦前から「浪商」として府民から親しまれてきた古豪・浪華商だ。現在は大体大浪商となっている名門校が、エースの牛島和彦(57)=元中日、ロッテ、元横浜監督=らを擁した79年の第61回大会で、地元の大声援を受けながら土壇場で粘り強さを発揮した熱戦を振り返る。(文中 敬称略)

創部2年で初出場

 レジェンド校の定義は難しい。歴史、実績は最低限必要。加えて、高校野球ファンに愛されることも不可欠だろう。大体大浪商はまさしく、これらの条件を兼ね備えている。「インパクトと“大阪”を感じさせる校名、ですかねえ」。牛島の母校評は、この上なく、正しい。

 創部3年目となる1926年の第12回選手権に、浪華商として初出場を果たす。市岡中と明星商の天下だった大阪の中等学校野球界は、浪華商や八尾中などが加わったことで一気に活性化する。しかし、“浪商”が日本中にその名をとどろかせるのは、しばらく後のことになる。

 46年。大戦激化により、5年のブランクを経て兵庫・西宮球場で再開された第28回選手権。5度目の出場となった浪華商は、左腕の名投手・平古場昭二を中心とする快進撃で、地元大阪勢として初となる深紅の優勝旗を、ついに手にする。

スター軍団の席巻

 その15年後、第43回大会で2度目の全国制覇を成し遂げた。怪童と言われた2年生投手・尾崎行雄(元東映)をはじめ、3年生に大熊忠義や住友平(ともに元阪急)、そして1年生外野手として高田繁(元巨人)ら、後にプロで活躍する選手がそろうスター軍団。別項に記すが、法政二(神奈川)の柴田勲(元巨人)との春夏3大会にわたる戦いは、今も語りぐさだ。

 そして、浪商のインパクトを決定づけるのが、79年に春夏連続出場した牛島−香川伸行(元南海)のバッテリーによる快進撃だった。

 今年の8月8日。牛島は、「あそこを通るのは高校の時以来」というネット裏の通路から一塁ベンチ脇の階段を通り、甲子園のグラウンドに出た。第100回選手権記念大会の、レジェンド始球式を務めるためだ。「(2014年に急逝した)香川が生きてたら2人で呼ばれたんだろうな」と思った。「拍手が、うれしかったな」とも。

 しかし39年前の拍手、熱狂は、そんなものではなかった。ドカベンの異名を取った人気者と、女性ファンをとりこにしたイケメンのバッテリーが、センバツ準Vで一躍、時の人となったのだ。

(上)宮崎国体で星稜ナインと記念撮影する牛島(中) (下)香川(左)との2ショットに納まる元星稜マネジャーの谷村誠一郎(いずれも谷村誠一郎提供)

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高田に誘われ入学

 ちなみに、牛島は別の高校を目指していた。少年時代、一度だけ浪商の練習を見たことがあるが「怖そう。行きたくない」という印象が強かったからだ。ところが、中学に入り名前が売れてくると、巨人の現役だった高田が直々に牛島を訪ね、「浪商に入ってくれ」と誘われ、入学を決める。

 その少年時代の印象は、センバツ前までの自分たちと同様だったと苦笑する。「電車でも道路でも、どこに行っても浪商の制服は怖がられてたんだけど、ガラリと変わりましたね」

 大量の女性ファンやマスコミが、それまでとは180度、違った視線を送ってきた。環境の変化に戸惑う牛島が、もう一つの試練にさらされる。センバツの準々決勝から3試合で投げた491球が響き、腰を痛めたのだ。

 練習もままならない。一部メディアからは「サボってる」とたたかれた。さらに宮崎での招待試合、都城農戦はテレビ放送まであったため、腰痛を押して登板。ノーヒットノーランを“してしまった”。「練習もしないで好投、とかいろいろ言われましたね」と振り返る。

 あらゆる治療法を試した結果、夏の大阪大会の4回戦あたりから回復。決勝では前年夏の甲子園大会を劇的な戦いで制したPL学園を破り、選手権出場を手にした。

香川とバッテリー

 牛島の人気は1回戦からピークに達する。相手は上尾(埼玉)。エースは下手投げの仁村徹(元中日など)だ。「うちは変則に弱かったので、苦戦するな、と」との予想通り、打線が8回までわずか3安打に抑えられ、0−2だった。

 追い詰められた9回。牛島は2死一塁で打席に立つ。初球、外角の直球に手が出ない。「届きそうになかった」。1ストライク。しかし、ここで「あと1球は思い切ったことができる」と頭を巡らせた。

 前の打席、直球の後の変化球で打ち取られていた。「内角のカーブを待とう」と決めた。直後、その通りのボールが来た。「ヨシッ、というところまでは覚えてます」。打球は左翼ポールを巻いてスタンドへ。「生まれて初めて、野球場で打った本塁打でした」と振り返った起死回生の同点2ランだ。

 この試合を延長でものにすると、浪商は倉敷商(岡山)、広島商、比叡山(滋賀)を次々と撃破。「やっぱり、苦手の変則でした」と準決勝で池田(徳島)の技巧派、橋川正人に完封負けを喫するまで浪商フィーバーは続いた。

 “香川−牛島のバッテリー”と呼ばれ、香川のすごさを認めながらも「反対(牛島−香川)にせなアカン」と反骨心を持ち続け、花開いた最後の夏。浪商が、牛島が、最高のインパクトを与えた夏、だった。 (西下純)

 ▼牛島和彦(うしじま・かずひこ) 1961(昭和36)年4月13日生まれ、大阪府出身の57歳。現役時代は右投げ右打ちの投手。浪商からドラフト1位で80年に中日入団。86年オフに落合博満との複数トレードでロッテへ移籍し、移籍1年目の87年に最優秀救援投手のタイトルを獲得。93年限りで現役引退。通算成績は395試合に登板し53勝64敗126セーブ、防御率3・26。2005〜06年には横浜の監督を務めた。

第43回大会で優勝投手となった浪商・尾崎行雄

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「むちゃくちゃな練習」耐えてベンチ入りした高田繁

尾崎行雄と法政二・柴田勲との3度の死闘

 スター軍団が一丸となって、当時の最強チームにぶつかっていく構図だった。1961年の第43回選手権。2年生エース・尾崎行雄を擁する浪商のライバルは、前年夏からの甲子園3連覇を狙う法政二。柴田勲を擁する「戦後最強チーム」に前年夏は2回戦で完封され、61年春は準々決勝で敗れていた。

 その4月、高田は「府立高校に行く勉強をしてたんだけど、力なくてね。当時の泉州銀行(現池田泉州銀行)の頭取の誘いもあって」と浪商に入学する。

 1年生300人。「レギュラーになれば甲子園に行ける学校」と信じ、「むちゃくちゃな練習」を耐え抜いた。1年生が100人くらいに減ったころ、実技のテストがあり、当時のベンチ入りギリギリとなる背番号14をもらった。

 「尾崎さんのボールはそりゃもう、前に飛ぶどころか、バットにも当たらない」と高田。「初めて『外野に飛ばす選手がいるんだ』と思ったのが準決勝で対戦した法政二だった」と言う。

高田繁

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 そこで過去2度の雪辱を果たし、桐蔭(和歌山)との決勝にも勝ち、浪商は2度目の優勝を手にする。ところがその秋、尾崎は浪商を中退し、プロ入り。高田が次に甲子園の土を踏むのは、柴田のいる巨人に入ってからのことだった。

 ▼高田繁(たかだ・しげる) 1945(昭和20)年7月24日生まれ、大阪府出身の73歳。現役時代は右投げ右打ちの内、外野手。浪商から明大を経てドラフト1位で68年に巨人入団し、同年新人王。71年に盗塁王を獲得。80年限りで現役引退。通算成績は1512試合に出場し、1384安打で打率2割7分3厘、139本塁打、499打点。85〜88年に日本ハム監督、2008〜10年途中までヤクルト監督を歴任。7年間務めたDeNAのゼネラルマネジャー(GM)を今年限りで退任した。

【プラスワン】注目度逆手に取りカメラマンに連続写真もらうなどの工夫で磨く

牛島の「投球術」

 投手として非常に完成度の高かった牛島だが、自己流だったという。

 「177センチ、68キロしかない体でしたから」と、あらゆる工夫で投球術を磨いた。注目度を逆手に取り、「マスコミのカメラマンに『連続写真をください』って頼んだりね」と不調脱出に役立てたこともあった。

 これは他のナインも同様だったようで「個々の強いチーム。個々で頑張って、『やらなきゃ』という時に、一つになって力を出すチームでしたね」と懐かしそうに語る。

 2年秋には香川が骨折。近畿大会は香川抜きながら、箕島(和歌山)も倒しての優勝だった。

 「あれで注目度がグンと上がりました」

 最後のフィーバーは、宮崎で行われた国体だった。星稜(石川)、池田、箕島など、その年に甲子園を沸かせた学校が和気あいあいと戦った。

 「ヘルメット4個とバット2、3本で宮崎に行ったんですが、足りなくて…。買い足しましたね」とは浪商らしい? エピソードだ。

(次回は12月11日掲載)

 

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