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【特選!レジェンド校】

2人のエース 苦悩する怪物 作新学院

2018年10月30日 紙面から

 100回もの歴史がある夏の甲子園では、怪物と呼ばれた男も随所に登場し、聖地を熱狂させた。その代表的な存在は、作新学院(栃木)の江川卓(63)=元巨人=だろう。江川が出場したのは3年だった1973年の第55回大会。1回戦で柳川商(福岡)に勝ち、2回戦で銚子商(千葉)に敗れ、わずか2戦で甲子園を去った。その舞台裏や、怪物と過ごした夏の思い出を、当時のチームメートに聞いた。 (文中敬称略)

大阪で調子を崩す

 1年夏の栃木大会準々決勝で完全試合をやってのけ、一躍その名をとどろかせた江川も、甲子園は縁遠かった。初出場は3年春のセンバツ。評判通りの豪腕を見せつけ4強入りすると、大フィーバーの中、夏の甲子園にも駒を進めた。しかし、江川にとって唯一で最後だった夏は、苦悩や試練の多い戦いでもあった。

大橋康延(63)

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 「大阪へ行ってから調子が悪かった。いつも隣で投げていたから調子は分かる。ダルそうだった」と話すのは同学年で控え投手だった大橋康延(63)。同じく同学年で、江川の球をずっと受けてきた捕手の亀岡(当時は小倉)偉民(よしたみ、63)も「あの夏は切れが悪かった」

 センバツの後、招待試合が相次いだことで「あっちこっちに行って疲れたんじゃないか」と大橋。亀岡も「ほとんど基礎練習も投げ込みもできないまま夏を迎え、球威もなかった」という。

狂騒曲で疲労蓄積

1回戦の柳川商戦、マウンドでちょっぴりさえない表情の江川=1973年8月9日、甲子園球場で

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 それでも栃木大会は5試合で計44イニングを投げ、1点も取られず、打たれた安打はわずか2本、ノーヒットノーランを3度も記録した。だが甲子園では、延長15回となった柳川商戦は7安打され、延長12回となった銚子商戦は11安打を浴びた。4試合で計8安打だったセンバツと比較しても、江川にしては打たれすぎだ。

 「三振を取るのはだいたい高めだが、力を入れて投げると浮いてボールになり、ストライクを入れようとすると置きにいった棒球になって打たれる悪循環だった」。当時のことをこう話す亀岡は「浮かないように投げさせる努力をした。チェックするのはボールを離す位置。早めに離すと浮く。そういう時はカーブを多投させた。カーブは上から投げて、球持ちもいい。そうしてリリースを修正させた」。しかし銚子商戦では、それすらかなわない状況に置かれた。試合中に降り続いた雨だ。

 「カーブを投げさそうにも雨で滑り、ボールがうまく抜けなかった」。しっかりコントロールできず、緊迫した状況では選択しづらい球種となり、リリースポイントを修正するための策も奪われた。条件は両チーム一緒とはいえ「雨さえ降っていなければ銚子商に負けることはなかったと思う」と亀岡は悔しそうだ。

押し寄せる人、人、

 大フィーバーも苦悩の一つだった。「センバツから帰ってからは相当すごかった。練習場にも練習試合にも、プロ並みというほどマスコミがたくさん来た。『作新の江川』だったのが『江川の作新』と取られるようにもなり、江川が孤立した感じにもなっていってしまった」と大橋。亀岡も「本塁打を打っても記者に囲まれるのは江川。江川が気をつかって『他の人にも聞いてほしい』と言っても、そうはならない。だんだん雰囲気がおかしくなった」と振り返る。

 ただ、その空気を江川自身が最後の最後で振り払ったと亀岡は言う。銚子商戦の延長12回裏1死満塁でフルカウントの場面。江川がマウンドに仲間を呼び、「今までで一番速い球を投げたい」と言った有名な場面がそれだ。

 渾身(こんしん)の1球は高めに大きく外れ、押し出し四球でサヨナラ負け。それでも亀岡は「みんなで集まって、野球をしたなという雰囲気にしてくれた。あの瞬間に勝ち負けというものが消えて、負けても悔しくなかった。あそこで初めて『作新の野球部』になったなという気がする」と目を細める。

仲間は感謝の言葉

 高校卒業時に大洋からドラフト2位指名された大橋は7年間のプロ生活を送り、現在はユニカ商事の社長。「江川の横で投げていた自分がまさかプロへ行けるとは思わなかったが、あれがあったからプロの目があった。甲子園でもセンバツで2イニング投げることができた。江川にはすごく感謝しています」

 亀岡は早大、熊谷組で野球を続け、現在は衆院議員。「僕は江川と知り合ってバッテリーを組んだということが一生ついて回るんですよ」。うれしそうな表情でこう言った。 (井上洋一)

 ▼江川卓(えがわ・すぐる) 1955(昭和30)年5月25日生まれ、福島県出身の63歳。右投げ右打ち。3年春のセンバツでマークした60奪三振は現在も大会記録。甲子園では春夏計92奪三振で、奪三振率13.96。73年ドラフトで阪急の1位指名を拒否して法大へ。77年ドラフトでクラウンの1位指名も拒否し、米国留学を経て79年に巨人入団。87年引退。プロ通算266試合、135勝72敗3セーブ、防御率3.02。MVP1回、最多勝2回、最優秀防御率1回。

開会日に赤痢感染

(左)1962年のセンバツでエースとして優勝投手となった作新学院・八木沢 (右)同年夏の甲子園で3完封の活躍を見せ春夏連覇に貢献した作新学院・加藤

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 今夏の大阪桐蔭を含め7校が達成した甲子園春夏連覇。最初に成し遂げたのは1962年、第44回大会の作新学院だ。試練を乗り越えての達成だった。

 背番号1はロッテ元監督の八木沢荘六(73)。センバツは全5試合に登板し、52イニング1/3を投げ自責点はわずか2点だった大黒柱が夏の甲子園は登板なし。赤痢感染が開会式当日の8月10日に発覚し、隔離されたのだ。

 「目の前が真っ暗になった」と八木沢。しかし、エース不在の危機を背番号11の加藤斌(元中日)が救った。全5試合をほぼ一人で投げ抜き3完封。47イニングを投げ、自責点はわずか1点。入院中は病室のテレビで仲間の試合を見ていた八木沢も「特にシュートが非常にいいコースに決まっていた。これは打てないと思った」とうなるほど抜群の投球だった。

「決勝も当然加藤」

八木沢荘六(やぎさわ・そうろく)

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 八木沢は岐阜商との準々決勝が行われた17日朝に退院し、甲子園に直行して合流。9−0と大量リードした9回の登板を打診されたが断った。「監督に『投げるか』と言われたときはうれしかった。でも、ブルペンで投げていて体がフワフワしていた。甲子園はちょっとした弾みで4、5点取られちゃう。そうなると止めようがなくなる」。結局、夏は一度も出番はなかったが「決勝も最後まで加藤で当たり前。あれで正解だった」という。

 それでも、優勝はこの上なくうれしかった。「赤痢で迷惑をかけたことが頭から離れず、負けたら故郷に帰れないと思っていた。私は春に投げ、夏に投げた加藤と2人でやった『春夏連覇』。とっても気分のいい言葉です」と笑顔で振り返った。

 ▼八木沢荘六(やぎさわ・そうろく) 1944(昭和19)年12月1日生まれ、栃木県出身の73歳。右投げ右打ち。早大を経て第2次ドラフト1位で67年に東京入団。73年には完全試合を達成。79年に引退。プロ通算394試合、71勝66敗8セーブ、防御率3・32。引退後はロッテ監督などを務めた。現在は日本プロ野球OBクラブの理事長。

 ▼作新学院 1885年に下野英学校として宇都宮市に設立された私立校。作新館、下野中などを経て1947年から現校名。野球部は1902年創部。甲子園は春夏計24度(夏14度、春10度)出場。夏25勝、春12勝、通算37勝はいずれも県勢最多。優勝は62年春夏と2016年夏の計3度。主なOBは島野育夫(元阪神コーチ)、落合英二(元中日)、今井達也(西武)、リオデジャネイロ五輪競泳金メダルの萩野公介ら。

【プラスワン】小柳ルミ子のファン。『瀬戸の花嫁』が好きだった

江川の日常

「怪物・江川」フィーバーを伝える1973年8月11日付東京中日スポーツ

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 江川はグラウンド内だけでなく、グラウンド外でももちろん注目の的だった。夏の甲子園開催中だった1973年8月11日付の東京中日スポーツでは「大モテ怪物クン」の見出しで江川狂騒曲を大特集。「どんな寝言を言ったかなんてことが大ニュースになる」という記者の嘆きや、兵庫県芦屋市内の宿舎に連日30〜40人の女性ファンが殺到したこと、さらには北新地のホステスさんたちも熱い視線を送っていると紹介されている。

 そんな江川の日常はどんな様子だったのか。亀岡は、作新の寮でこっそり勉強していた姿が印象的だったという。「自分も江川も進学クラスだったから、他の人が午後10時ぐらいに寝た後も12時過ぎまで勉強していた。電気をつけると先輩に怒られるから、布団をかぶり、その中に蛍光灯を引っ張って勉強していた」と懐かしそうに話した。

 「テレビでナイターを見たり、普通の高校生と一緒だったよ」と話した大橋に、「江川さんが好きなアイドルとかいなかったのですか」と聞くと、こう思い出してくれた。「そういえば、彼は小柳ルミ子のファンだった。『瀬戸の花嫁』が好きだった」。当時、これを聞けていたら1面間違いなし?

(次回は11月13日掲載)

 

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