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【特選!レジェンド校】

沖縄初参加から52年 春夏連覇でたどり着いた 悲願 興南

2018年10月2日 紙面から

史上6校目の春夏連覇を達成し喜ぶ島袋(左から2人目)ら興南ナイン=2010年8月21日、甲子園球場で

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 21世紀初の甲子園大会春夏連覇を達成したのは、2010年の第92回大会を制した興南(沖縄)だ。1968年の第50回大会で同校主将として4強に進んだ我喜屋優監督(68)に率いられたチームは、エース・島袋洋奨(現ソフトバンク)の力投と切れ目のない打線で快進撃。沖縄県民の悲願だった深紅の優勝旗を初めて持ち帰った。夏の優勝は、58年の第40回大会で沖縄県勢が初めて甲子園の土を踏んでから52年後の快挙だった。 (文中敬称略)

58年は米軍統治下

 沖縄県勢が甲子園に初出場したのは、まだ米軍統治下にあった1958年の首里。そこから52年後に悲願が現実となった。監督だった我喜屋も「沖縄にとって悲願中の悲願だった」という快挙。自身が主将だった68年の「興南旋風」を超えた。

 我喜屋は大昭和製紙北海道時代に都市対抗野球で優勝するなど、社会人野球でも選手や監督として活躍。雪国の不利を克服しようと練習法も工夫した。駒大苫小牧を夏2連覇に導いた香田誉士史(現西部ガス監督)に、雪上でのノックなどを助言したこともある。

 母校の監督に就任したのは2007年。直後に24年ぶりの選手権大会出場を果たした。「監督になって3カ月だし、衝撃的でした」。当時中3だった島袋は振り返る。翌08年春、県中部を中心とした腕自慢の中学生が興南に集まった。

「とにかく球際」

 我喜屋の練習法について、島袋は「とにかく球際でしたね」と話す。グラウンド横の階段の上から投げたボールを、前後左右に動いて捕球する練習などで「あと一歩」を鍛えた。朝の散歩の際のごみ拾いや「1分間スピーチ」で心も鍛えた。

 体を二塁側にひねって投げるフォームで「琉球トルネード」と呼ばれた島袋がエースとなった09年。2年生がレギュラーのほぼ半数を占める若いチームは全国の壁にぶち当たった。春は島袋が富山商から19三振を奪いながら延長10回の末に0−2。夏は明豊(大分)に3−4でサヨナラ負けと、ともに初戦負けを喫した。明豊戦で6回以降に4失点した島袋は「相手の主将が『終盤に球威が落ちた』と言っていたのが一番悔しかった」と振り返る。

エース島袋の開花

(上)2010年夏、東海大相模との決勝でベンチから指示を出す興南・我喜屋優監督 (下)本塁に生還する選手時代の我喜屋監督(左)。1968年に興南の主将として夏の甲子園に出場し、チームをベスト4に導いた

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 それでも、我喜屋は手応えを感じていた。「チームの成長は過去の敗戦からいかに学ぶかにかかっている」という信念があったからだ。新チーム結成時には選手に「今年は全国で勝てるチームをつくる。目標を持ってついてこい」と伝えた。

 島袋も明確な目標を立てた。「いかに終盤に強い投手になれるか。反省からイメージした」。冬は徹底して下半身を鍛えるとともに、投球フォームを固めた。野手は砂を詰めた鉄パイプなども使い、血まみれの手でバットスイングを重ねた。

 10年春のセンバツ大会で、我喜屋は「寒さ対策」に工夫をこらした。「(零封負けの前年は)体が冷えて打撃は力が出せなかった。沖縄には寒さで手がかじかむ感覚がないので、手を氷水に漬けて打撃練習をさせた」。成果は5試合で36得点の猛打に表れた。

暑さ対策にも知恵

 夏は「暑さ対策」にも知恵を絞った。「夏は沖縄より甲子園の方が湿気があって蒸し暑い。練習でかっぱを着せて蒸し暑さを経験させた」と我喜屋。甲子園の室内練習場では冷房を切る徹底ぶりだった。

 10年夏は6試合で51イニングを投げた島袋が「やりたい投球ができた」と振り返るのが、報徳学園(兵庫)との準決勝だ。2回までに5失点。我喜屋ですら「普通は2回までに5点取られたら駄目」という劣勢をはね返して6−5で逆転勝ちした。

 3回以降を無失点に抑えた島袋は「球数も重なり、疲れも出てきていたところで終盤に失点せずに粘れた」と話す。連投となった決勝は東海大相模(神奈川)を相手に1失点完投。打線も大量13点を奪う圧勝だった。

連覇に地元も熱狂

 春夏連覇の快挙に地元も熱狂。那覇空港や優勝報告会にはファンが押し寄せた。9月末には那覇市の沖縄県立博物館・美術館に春夏の2本の優勝旗が展示され、最終日は同館記録を更新する1万人以上が押し寄せた。

興南の春夏連覇を記念して、那覇市の県立博物館・美術館で展示された春夏の甲子園の優勝旗

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 島袋は「沖縄に帰ると、知らない方からも『ありがとう』と言ってもらった」と笑う。我喜屋は「春夏連覇した興南への沖縄県民の期待度は、他のチームと全然違うと感じる」と話す。甲子園で沖縄代表が試合をする時間帯は、街から人が消えるといわれる土地柄。平成の「興南旋風」のインパクトは強烈だった。 (相島聡司、前田泰子)

 ▼興南 1962年創立の私立共学校で野球部も同年創部。甲子園出場は夏12度、春4度。本土復帰前の68年夏に沖縄勢で初めて4強入りし、2010年に史上6校目の春夏連覇を達成。主な卒業生に仲田幸司(元阪神など)やボクシング元世界王者の具志堅用高ら。野球部の我喜屋優監督は理事長と校長も務める。

 ▼我喜屋優(がきや・まさる) 1950(昭和25)年6月23日生まれ、沖縄県南城市(旧玉城村)出身の68歳。68年夏に興南高の主将として沖縄県勢初の甲子園4強。社会人の大昭和製紙北海道時代の74年には都市対抗で北海道代表として初優勝。引退後は大昭和製紙北海道や、同社の野球部活動休止後に発足した「ヴィガしらおい」の監督を歴任。2007年から興南高野球部監督。

初公開された 沖縄水産「栽ノート」

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 今夏に那覇市の沖縄県立博物館・美術館で開かれた高校野球の企画展「熱闘 高校野球 本気の夏 100回目」で、6冊のノートが初公開されて話題を呼んだ。2007年に65歳で死去した栽弘義が沖縄水産監督時代、夏の甲子園で2年連続準優勝した1990、91年のメモだった。

 沖縄の高校野球を代表する指導者だった栽は、糸満から中京大を経て64年に小禄に赴任。その後、71年に異動した豊見城で甲子園に春夏計7度出場し、8強が4度。80年から率いた沖縄水産では、沖縄の悲願だった深紅の大優勝旗へあと一歩に迫った。

栽弘義(故人)が沖縄水産野球部監督在任中に所感を記したノート

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 91年夏は右肘を痛めていたエースの大野倫(元巨人など)が全6試合、773球を投げ抜いた。ノートには、鹿児島実との準決勝の欄に「大野打ち気はずしてナイスピッチング」と記されている。

 ノートを展示した同館主任学芸員の外間一先(52)は「栽さんは、沖縄の高校野球が全国レベルに上がる転換点となった。かつて、米軍から流れてきたボールやバットで野球に熱中した沖縄の少年が、甲子園で活躍する土台をつくった」と話す。

 「沖縄のチームを全国の頂点に」と言い続け、監督として甲子園春夏通算27勝の栽は41年生まれ。45年の沖縄戦で姉を亡くし、自身も背中に傷を負った。苦難の歴史を持つ故郷の思いも胸に秘めた名物監督は、指導の厳しさで知られたが、ノートには本音も垣間見えた。

【プラスワン】中京商の夏3年連続はもはや“不滅”

高校野球の連覇

 今夏は、大阪桐蔭の史上初となる2度目の「春夏連覇」が話題を呼んだ。同校は17年春も優勝したが、同年夏は3回戦で仙台育英(宮城)に1−2で逆転サヨナラ負け。この大会を制していれば、前人未到の甲子園4季連続優勝だった。

 選手が短い期間で入れ替わる高校野球で長期間の「連覇」は難しく、甲子園での3季連続優勝はまだない。1931〜33年の中京商(現中京大中京、愛知)は夏3連覇を達成しているが、巨人のV9のような“長期政権”は困難だろう。夏の連続準優勝は90、91年の沖縄水産が史上初。2011、12年がともに準優勝だった光星学院(現八戸学院光星、青森)は12年春も決勝で大阪桐蔭に敗れ、史上初の3季連続準優勝だった。春の連続準優勝は明石中(現明石、兵庫)が1932、33年に記録している。

(次回は10月30日掲載)

 

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