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【特選!レジェンド校】

積み重ねた101勝の重み 龍谷大平安

2018年9月26日 紙面から

 夏の高校野球は、京都二中の優勝(第1回、1915年)から始まった。さらに言えば、同校OBによる朝日新聞社への持ち込み企画こそが、夏の選手権の前身である全国中等学校優勝野球大会とされる。歴史に深く関わる京都府。その雄として全国にその名をとどろかせる龍谷大平安。今夏の第100回大会で春夏通算甲子園100勝を成し遂げた超名門の、名門たるゆえんを探る。 (文中敬称略)

(左)鳥取城北−龍谷大平安 9回裏、サヨナラ勝ちに歓喜する龍谷大平安ナイン。原田英彦監督(右端)も思わずガッツポーズ(北村雅宏撮影) (右)春夏通算100勝に感極まる原田監督(山口登撮影)=8月11日

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原田監督感激の涙

 龍谷大平安は今年8月11日の1回戦で鳥取城北をサヨナラで破り、中京大中京(愛知)に続く史上2校目となる甲子園100勝という偉業を達成した。監督・原田英彦(58)は、人目もはばからず歓喜の涙を流した。

 何しろ生まれつきの、筋金入りの、熱狂的平安ファンと公言する原田だ。その人生に触れれば、少なくともこの半世紀の同校の歴史に切り込んでいける。

 選手権は、京都から生まれた。野球王国を自認する地域は多いが、京都もまた、強烈だ。

幼少期からファン

 平安ファンとして幼少時代を過ごし、平安進学を心に決めていた原田は、中学1年だった73年夏の京都大会準々決勝の京都商(現京都学園)戦をいまだに覚えている。2年生投手・山根一成が延長10回、京都商・小竹重行のサヨナラ本塁打で敗れた試合だ。

 「当時の西京極球場はロッカールームが球場の外にあって、僕は『コイツか。ホームラン、打ったんは』と小竹さんをニラみに行ったんですよ」

 ファンとしてめちゃくちゃ悔しかったゆえの思い出だが、同時に「大勢のファンが両チームの部屋を取り囲んでました」という光景も心に残っている。

 今なら、どうだろう。ちょっとした騒ぎとして、警備員が飛んでくるか、新聞沙汰になるか…。しかし当時は、日常の光景だった。

学校にあふれる人

 野球部がまだ、西本願寺の西に位置する校庭で活動していた時代。近くに中央卸売市場などもあり「昼に時間のある人が練習を見に来て学校からあふれてました」と言い、試合の日は「自転車1台なんぼ、で金を取ってましたよ」というほど、高校野球は、平安は愛されていた。

 そうしたファンの目にさらされながら伝統を築いていく。平安野球とは、やんちゃ坊主の成長過程を凝縮したものだろう。

 「野球って、やんちゃなヤツがするもんでしたから」と原田は言う。80年あたりまで、学食では、野球部が真ん中に「でーん」と陣取って、他の生徒が遠巻きに座る。

 それでも、入学時に90人いた部員が最後は10人程度。やんちゃなだけでは通用しないことを痛感する。「なにくそ、の根性と、先輩に怒られずに済ますため考えて動く大人の所作」がなくては残れない。

 時代は移り、部員を削るためのスパルタは、もうない。ただ、「例えば現代風のトレーニングも、5年前に最新のものが今はナンセンスと言われる。新しいものはどんどん採り入れますよ」という一方で、「古くさいと思われることに、大切なものがある」の持論は譲らない。厳しさを乗り越えた集団の強さ。

上尾との延長13回

 90試合を超える夏の甲子園で、原田が挙げるベストゲームは2つだ。74年、上尾(埼玉)との2回戦。そして2001年、松山商との準々決勝。

上尾−平安 延長13回裏、亀山の幸運な内野安打で平安の三走・池永(左)が生還しサヨナラ勝ち。次打者・瀬川(7)に抱きついて大喜び=1974年8月14日

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 上尾戦は、スタンドから見た。前年、京都商に煮え湯を飲まされた山根が、マウンドにいた。「すぐにカッとなる人でした。そういう時には捕手からの球を受けたらすぐに投げるようなね」と、エースの“やんちゃ”な姿を見た。「他の選手同士も、試合中にケンカしてた」という。

 延長13回。ケンカ腰で勝ちきった平安の姿は、中学2年の原田にはたまらなく魅力的だった。

 しかし、そこから冬の時代に入る。6年ぶりの甲子園は80年のセンバツで、その上尾に1回戦負け。選手権はさらに10年、待たなければならなかった。

 93年。原田は「キャッチボールができる選手が2人」というところまで落ちた母校の危機を救うべく、監督要請を引き受けた。これを「使命」と捉え、必死の立て直しを図り、97年に春夏出場。夏は準優勝だった。

念願叶う松山商戦

 しかし、古豪復活というにはまだ不十分と思った原田は99年、四国の名門巡りを敢行する。その中の、松山商との練習試合。ここで二つの衝撃を受けた。「沢田(勝彦監督)さん(61)が、“昔”を貫いていた。ダッシュ、着替え、声出し、グラウンド整備…。全て『ここを目指さなアカン』と」という名門のあるべき姿が一つ。

松山商−平安 6回裏2死一、二塁、池田の左越え打で一塁走者・市来が本塁を突くが、好返球でタッチアウト。捕手・石丸=2001年8月19日(圷真一撮影)

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 二つ目。試合は、逆転負け。京都に劣らぬ松山の熱い高校野球ファンから、声が飛んだ。「もう来るなよ!」。原田は「失礼があったか」と青ざめた。しかし、その声は続けて「松商と平安は、甲子園でやるもんじゃ!」。涙が出た。

 01年。聖地で夏に両校が対戦したことは、それまでなかった。2年前の衝撃を忘れていなかった原田は組み合わせを見て「松商とやる」の思いで必死に2、3回戦を勝ち上がり、念願が叶(かな)った。

 それは、想像通りの試合となった。松山商が序盤にリード。平安も食らいつく。6回に同点。松山商の好投手・阿部健太(元ヤクルトなど)を引きずり下ろす。8回、2点を勝ち越され、その裏、1点を返す…。「夕焼け、真っ赤でした。『甲子園が、この試合を歓迎してくれているんや。終わらんといてくれ』と思いました」。夢のような敗戦、と言えばいいのだろうか。

 「HEIAN」のユニホームに袖を通す。全国の名門と切磋琢磨(せっさたくま)する。ファンや指導者の厳しく、温かい視線に見守られ、悪ガキが大人へと成長する。こうして名門は、続いて行く。 (西下純)

多彩なレジェンド…京都の野球

 一説ではあるが、京都二中OBの高山義三が旧制三高(現京大)時代に母校の充実ぶりを世に知らしめようと、朝日新聞社に持ち込んだ企画が、今の選手権大会とも言われている。

 大会が軌道に乗ると、京都から同志社、立命館、京都商などが台頭。特に平安と京都商はライバルとしてしのぎを削ってきた。

 京都商には沢村栄治(元巨人)、4学年下の平安には金田正泰(元阪神)。さらに下って吉田義男(京都二商〜山城、元阪神)、野村克也(峰山、元南海など)、衣笠祥雄(平安、元広島)らプロのレジェンドの多彩さも、京の野球の奥深さを感じさせる。

 ▼原田英彦(はらだ・ひでひこ) 1960(昭和35)年5月19日生まれ、京都府出身の58歳。九条中から平安(現龍谷大平安)高へ進学し、1年秋から外野手のレギュラー。甲子園出場は果たせず、卒業後は社会人の日本新薬で活躍。93年秋に平安高の監督に就任。97年夏は準優勝、2014年センバツでは同校の春初優勝に導く。

 ▼龍谷大平安 1876年に滋賀県彦根市で開校し、1909年に京都市の現在地へ移転。野球部は08年創部。27年の第13回大会で甲子園初出場し、以後夏34度(優勝3度)、春40度(同1度)の甲子園出場で春夏計74度は史上最多。春夏通算甲子園通算101勝。故衣笠祥雄(元広島)、桧山進次郎(元阪神)、川口知哉(元オリックス)、炭谷銀仁朗(西武)らプロ野球選手を多数輩出。

【プラスワン】原田監督が描く龍谷大平安の理想

鍵は川口知哉、そしてOB会との関係

 龍谷大平安が今後も永く発展する。原田の願いは、ここに集約される。そのためにグラウンド外にも目を向ける必要がある。

 一つは、後継者の育成だ。平安最強世代を支えた1997年甲子園準優勝投手の川口知哉(39)=元オリックス、現女子プロ野球・京都フローラ監督=に、いずれは監督を譲ると決めている。

 「高校時代、一番練習したのが川口」と原田。プロでは挫折も「いろんな経験を経て、素晴らしい社会人になった。いい形で任せられたら」と、環境づくりに着手している。

 もう一つが、OBとの関係だ。古豪、名門は共通してOBの存在が大きい。しかし、全員が同意見、ということもまずない。真の応援団となってもらうため、原田は時間が許す限り、OB会に顔を出すようにしている。

 昨年からOB会長に就任した岩間英明(74)は浪商(現大体大浪商、大阪)の尾崎行雄(元東映)らと同世代。20年ほど前、練習を見学した際に原田の誘いを受け、グラウンドに立つようになった。「選手たちに平安のプライドを伝えつつ、親しみを持てるOBとして接したい」と援護射撃する。原田が理想とする平安に、着々と近づくのが分かる。

(次回は10月2日掲載)

 

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