トップ > 中日スポーツ > スポーツ > 特選!レジェンド校 > 記事

ここから本文

【特選!レジェンド校】

聖地に愛され聖地を愛した2人の大輔 早実・荒木 横浜・松坂

2018年8月29日 紙面から

写真

 1915年の第1回大会から夏は29度出場、春も合わせれば50度の出場を誇る東京の名門・早実。長い歴史の中で多くのスターが生まれ、甲子園を沸かせてきた。その中で、80年夏の第62回大会に1年生投手として準優勝に貢献し、以後82年の第64回大会まで5季連続で甲子園に出場した荒木大輔(54)=現日本ハム2軍監督=にスポットを当てる。甲子園の思い出、甲子園の魅力、さらには世の女性を熱狂させた「大ちゃんフィーバー」などについて聞いた。 (文中敬称略)

爆発的な熱狂

1980年夏の甲子園1回戦。北陽をわずか1安打に抑え完封した早実の1年生投手・荒木大輔。これが甲子園のデビュー戦であり、大ちゃんフィーバーの始まりでもあった

写真

 夏は100回もの歴史が刻まれた甲子園。そこで生まれた数多くのスターやヒーローが夏の聖地を彩り、沸かせ、まぶしいくらいの輝きを放ってきた。早実の荒木大輔もそんな一人だ。まだあどけなさも残る1年生投手だった1980年夏に初出場。その年に準優勝すると、3年夏まで5季連続で出場した。3年間で春夏通算17試合に登板し12勝5敗。夏に限れば13試合の登板で10勝3敗の好成績を残し、同時に爆発的な熱狂も呼んだ。

 最も思い出深い試合は「やはり、初めて行った時の最初の試合ですね」という。甲子園のデビュー戦となった80年夏の1回戦は、地方大会のチーム打率が出場49校中トップの3割7分4厘という強打の北陽(大阪)に完封勝利。しかも、許した安打は6回の先頭打者に打たれた三塁内野安打1本のみという圧巻の投球。ただ、内容については「半分以上覚えていない」という。

 「そうなるほど、緊張していた。足も震えて大変な状況だったけど、そういうことを吹き飛ばすくらい真っ白だった。例えば最初の打者に何を投げて、どういう結果だったのかも覚えていない。結果的に5回までノーヒットだったけど、それもスコアボードを見て知った。そのスコアボードも、5回に見たかどうかも覚えていない」。まさに無我夢中で手に入れた白星は、自らを取り巻く状況も大きく変えた。

喧騒でも好投

1980年夏、3回戦の札幌商戦で勝った後、大勢のファンが押し寄せる中で甲子園から引き揚げる早実・荒木(手前)

写真

 「その後の騒ぎもあの試合からだった」。彗星(すいせい)のように現れた1年生投手は、甘くてさわやかなルックスで多くの女性をとりこにした。そして、いつも黄色い声援が飛び交う「大ちゃんフィーバー」が、ここから始まった。

 そんな喧騒(けんそう)の中でも、荒木は素晴らしい投球を続けた。準決勝まで1点も取られず、初戦からの5試合で計44イニング1/3を投げて無失点。愛甲猛(のちロッテ、中日)を擁する横浜との決勝は、初回を0点に抑えれば連続イニング無失点の大会新記録だったが、いきなり1回に2点を失うなど3イニング5失点でKO。甲子園で初めて悔しい投球となった。それでも、1年生投手として経験した大舞台は、荒木の心の中で甲子園への思いをものすごく強くした。

独特の雰囲気

 「実際に出場して、甲子園の素晴らしさを知った。空気であったり、匂いであったり」。初めて聖地のグラウンドに立ったのは、開幕前の甲子園練習の時で「ものすごい緊張感を持たせる球場だな。みんながこういうところにあこがれるという雰囲気を感じた」という。そこから登板を重ねるにつれ、グラウンドで感じる独特のものに、荒木はとりこになった。「また出たい、出たい」。もちろん、モチベーションだけで出場できるわけではないが、まるで甲子園に愛されたかのように、あのマウンドにはいつも荒木がいた。

 「僕らは甲子園に育ててもらった。多くのことを学ばせてもらった。学校、教室みたいなところだった。野球、仲間、勝負事、すべてを教えてくれた」。こう話す荒木は、今もなお胸に抱く、甲子園への特別な思いを口にした。

プロとは違う

 「プロに入ってからも甲子園で投げたけど(計16試合に登板)、高校野球の時とは景色がちょっと違う。似てると思うが違う球場だと思う。お客さんの熱気、アルプス席の応援…。プロ野球で使う甲子園も似てる球場だけど、あの甲子園じゃない」。甲子園はきっと、荒木を愛していた。荒木も、甲子園を愛している。 (井上洋一)

4歳上の兄の存在

 荒木は母校への強い思いも口にした。「高校時代、本当に楽しかった。また戻りたい。また早実のユニホームを着て、また同じメンバーで試合をしたい」。早実のメンバーとして1977年春から4季連続で甲子園に出場した4歳上の兄・健二の存在が早実を志したきっかけ。そして、自身は濃密な高校時代を過ごし、早実は特別なものになった。

 第1回大会から100周年を迎えた2015年、甲子園球場で12月に開かれたイベントでは母校のユニホーム姿で始球式を行った。「早実のユニホームを着たとたんに緊張して、ワンバウンドの投球になっちゃった。こういう気持ちにさせるのも高校野球だと思う」。荒木は早実も強く愛している。

【プラスワン】本人も苦笑「家の電話番号、何回変えたか分からない」

フィーバー余波

 荒木の活躍により湧き起こった「大ちゃんフィーバー」は、社会現象といえるほどの大騒動となった。甲子園や宿舎には若い女性が大勢押し寄せ、「大ちゃ〜ん」という黄色い声援が飛び交った。もっとも、フィーバーの当事者は大変だった。

 「北陽戦で宿舎から甲子園へ出発する時は、旅館のおばちゃんとバイトの女の子数人に見送られたのが、戻ってきたらとんでもないことになっていた。宿舎にバスが横付けできないほど人がたくさんいた。宿舎は甲子園から100メートルほどのところだったけど、それも(運命の)いたずらだったのかもしれない」と荒木。北陽戦の前までは、宿舎近くのドーナツ店へ行ったりジュースを買いに行ったりしたというが、そんなこともできなくなった。

 東京へ戻ってからも通学時に女子高生に囲まれたりした。「そういう時は同級生が自分の周りを囲んで守ってくれた。ひどい嫌がらせもなかった」というが、大きな悩みとなったのは自宅の電話。当時は電話帳に番号が載っており、ファンからジャンジャンかかってきたという。

 「家の電話番号、何回変えたか分からない」。荒木は当時を思い出しながら苦笑いした。

 ▼荒木大輔(あらき・だいすけ) 1964(昭和39)年5月6日生まれ、東京都調布市出身の54歳。調布リトルに在籍した小学6年の時に世界大会で優勝。早実の投手として甲子園を沸かせた後、ドラフト1位で83年にヤクルト入り。96年に横浜へ移籍し、その年限りで引退。プロ通算成績は180試合に登板し39勝49敗2セーブ、防御率4・80。引退後は西武、ヤクルトでコーチを務め、今季から日本ハム2軍監督。

 ▼早実 1901年に早稲田実業中学校として開校。05年に創部した野球部は15年の第1回大会出場を手始めに、甲子園大会には春夏計50度(夏29度、春21度)出場。歴代9位の春夏通算66勝(夏43勝、春23勝)を挙げている。斎藤佑樹(日本ハム)がエースだった2006年夏と、王貞治(ソフトバンク球団会長)がエースだった1957年春の2度優勝。他の主なOBは大矢明彦(元横浜監督)、川又米利(元中日)、清宮幸太郎(日本ハム)ら。

横浜・松坂 小さくはなかった「250球完投」の影響

伝説の延長17回

PL学園戦で延長17回、250球を投げ抜いた翌日の明徳義塾戦では9回から登板、3人でピシャリと封じた横浜・松坂=1998年8月21日、甲子園球場で

写真

 大ちゃんフィーバーが準優勝で始まった年の9月に「大輔」と名付けられた赤ちゃんが、決勝で荒木を破った横浜高で18年後に春夏連覇を達成した。PL学園と延長17回の死闘を演じた準々決勝では250球で完投。試合後、松坂大輔(現中日)は「明日(準決勝)は投げません」とコメントした。将来を見据え、大会前に「4連投はさせない」と渡辺元智監督に言われていたからだが、明徳義塾(高知)との準決勝では2点差に迫った9回に登板。15球で抑え、サヨナラ勝ちをもたらした。

 結局、4連投を含む6試合で計782球。史上最多の948球を投げた斎藤佑樹(早実)ら、松坂の総投球数を超えた投手はその後も何人かいるが、やはり250球完投の影響は小さくなかった。引き分け再試合は延長18回から15回に短縮。現在のタイブレーク制へと続くきっかけにもなった。

 「選手の体を守るルールは必要なことだと思う。延長で起こったドラマはないかもしれないけど、変わったら変わったで新しいドラマがある」

 平成の怪物は歴史をつくり、伝説を残した。そして東の名門は、その後もプロ野球界に人材を輩出し続けている。 (渋谷真)

(次回は9月4日掲載)

 

この記事を印刷する

PR情報

閉じる
中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日新聞フォトサービス 東京中日スポーツ