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【特選!レジェンド校】

自信を確信に変えつかんだ連覇 駒大苫小牧

2018年8月28日 紙面から

 第100回の記念大会だった今夏の全国高校野球選手権は、優勝した大阪桐蔭だけでなく準優勝した金足農(秋田)の躍進も大きな注目を浴びた。2004年の第86回大会で北海道勢として初の頂点に立ち、05年に夏2連覇の偉業を成し遂げた駒大苫小牧も地方から熱狂を巻き起こした。大会3連覇を目指した06年には早実(西東京)との決勝で再試合の激闘を繰り広げるなど、高校野球ファンには決して忘れられないチームだ。 (文中敬称略)

メンタルトレの一環

京都外大西を破り大会2連覇を決め、大喜びで指を突き上げる田中(中)ら駒大苫小牧ナイン=2005年8月20日、甲子園球場で

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 今夏、史上初の2度目の春夏連覇を達成した大阪桐蔭も、最後は人さし指を立てる「ナンバーワンポーズ」で歓喜の輪をつくった。今や定番となったこのポーズは、駒大苫小牧から広がった。平成の甲子園で放った輝きはそれほど強烈だった。

 「まだ弱いころ、メンタルトレーニングの一環で取り入れました。本来は『ナンバーワンを目指す』と『われわれは一つ』という意味のあいさつでしたが、誇らしい部分もありますね」。当時の監督だった香田誉士史(47)=現西部ガス監督=はこう振り返る。

「北海道をなめるな」

 香田は佐賀商から駒大を経て、1995年に駒大苫小牧の監督に就任。66年の第48回大会に初出場して以降、甲子園に縁がなかった同校を猛練習で鍛えた。九州出身の熱血漢の胸にあったのは「北海道をなめるな」。全てに手を抜かなかった。

 滑りやすい雪上でのノックで技術と体力を同時に鍛え、マイナス気温の2月から紅白戦を敢行した。打撃重視のチームが多かった北海道で、連係プレーやカバーなど細かい部分まで徹底的に追求。2001年に35年ぶりの甲子園へ導いた。

 指導に自信を深め、春夏連続出場を果たした03年。香田は倉敷工(岡山)との1回戦を「忘れられない試合の一つ」と言う。8−0とリードした4回裏の攻撃中に雨が激しくなり、無念のノーゲーム。翌日の再試合は2−5で敗れた。

失望の中での出会い

優勝旗を手に優勝報告会会場に入場する駒大苫小牧の選手たち=04年8月23日

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 「監督として屈辱。選手に『切り替えろ』と言いながら、自分ができなかった」。深い失望だったが、大きな出会いもあった。兵庫県伊丹市の宿舎近くでの練習を同市の中学3年生が見て、入学を決意。それが田中将大(現ヤンキース)だった。田中は後に、当時は道外の選手を勧誘していなかった駒大苫小牧を選んだ理由を「一番は自分が選手、人間として上達していける環境に身を置くことだった」と語っている。

 田中が入学した04年。夏は主将の佐々木孝介(現駒大苫小牧監督)らを中心に勝ち上がり、決勝で春夏連覇を狙った済美(愛媛)を撃破。深紅の大優勝旗は「白河の関」を飛び越し、一気に津軽海峡を渡った。念願の北海道勢の初優勝に地元は熱狂。グラウンドには練習見学のファンが鈴なりで、優勝旗の見学者が学校に何万人も訪れたという。

明治神宮大会が転機

2005年の決勝で最後の打者を三振に打ち取り大会2連覇を決め、ガッツポーズする田中

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 「駒苫フィーバー」は続いた。04年夏はスタンドから声援を送った田中が、同年秋の明治神宮大会の羽黒(山形)との2回戦で投手デビューした。1回戦は「5番・捕手」でフル出場するなど当時は捕手が本職で背番号は2。6イニング4失点で負け投手となったが、大きな転機となった。

 香田は「連戦だったので投げさせてみたら、いろんな方に『あの2番はすごい』『20年に1人の素材』などと言われ、本当かなと思った」と笑う。同年冬の面談で田中に捕手と投手の選択を問うと、間髪入れずに「投手一本でいきます」との答えが返ってきたという。

 投手に本格的に取り組んだ田中は、05年夏は背番号11ながらエースの松橋拓也らとともに夏2連覇に貢献。小倉(福岡)以来、57年ぶりとなる快挙を北海道から成し遂げたチームに、甲子園のファンは前年に劣らない声援を送った。

早実との再試合死闘

 翌06年夏も決勝に進み、「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹(現日本ハム)を擁する早実と対戦。延長15回引き分け再試合の末に3−4で惜敗した。1931〜33年の中京商(現中京大中京、愛知)以来2校目の夏3連覇は逃したものの、駒大苫小牧の活躍が北国のチームに与えた影響は大きい。

  (相島聡司)

 ▼駒大苫小牧 1964年に開校した駒大付属の私立校。野球部も同年に創部された。甲子園には夏は7度出場で優勝2度、準優勝1度。春は4度出場。主なOBは田中将大(ヤンキース)、スピードスケートと自転車で冬夏の五輪に出場した橋本聖子(参議院議員)ら。

「ナンバーワンポーズ」生みの親・香田誉士史の母校 佐賀商が目指す「パイオニア」

「ナンバーワンポーズ」について話す香田誉士史(現西部ガス監督)

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 年号が平成になってのべ30校が夏の甲子園を制したが、公立校は3校しかない。その1校が香田の母校で、1994年の第76回大会で佐賀県勢初の全国制覇を遂げた佐賀商だ。今夏の第100回大会には10年ぶり16度目の出場を果たした。

 監督の森田剛史(47)は香田と同級生。小学校から高校までチームメートで、内野手として甲子園に春夏計3度出場し、亜大や社会人の日本石油(現JX−ENEOS)でも主力として活躍した。私立校の台頭もあり、かつて全国の高校野球をけん引した公立の商業高校が苦しむ中、「新しい商業高校のパイオニアになる」と誓う。

 監督として2度目の夏の甲子園出場だった今夏は初戦で高岡商(富山)に敗れたが、確率を重視したバスター打法が注目を集めた。「夏の出場はたった16度。上がいるし、伝統校などとは思わない。これから新しいものをつくるイメージ」と発展途上を強調する。

 猛練習は健在。2泊3日の冬合宿では1日に20キロを2セットなど、計100キロを走り込む。その上で選手の適性に応じた戦略を練る。香田の存在は「励みにはなるが、まねはしない。彼は彼、自分は自分ですから」。故郷の佐賀から打倒・大阪桐蔭を目指している。

 ▼香田誉士史(こうだ・よしふみ) 1971(昭和46)年4月11日生まれ、佐賀市出身の47歳。佐賀商では外野手として甲子園に春夏計3度出場。駒大に進み、94年には母校のコーチとして夏の甲子園優勝を経験した。95年に駒大苫小牧の監督に就任。2004年から夏の甲子園を連覇し、06年は準優勝。12年から社会人の西部ガス(福岡市)でコーチを務め、昨年、監督に就任した。

【プラスワン】完全試合に最も近づいた男

佐賀商・新谷博

第64回大会の木造戦で史上19人目のノーヒットノーランを達成した佐賀商の新谷博=1982年8月8日、甲子園球場で

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 今夏で100回を数えた全国高校野球選手権。長い歴史の中で多くの記録が生まれたが、相手に1人の走者も許さない完全試合を達成した投手はいない。「史上初」の快挙に最も近づいたのは、1982年の第64回大会に出場した佐賀商の新谷博だ。

 新谷は木造(青森)との1回戦で9回2死から27人目の打者に死球を与えた。それでも、次打者を打ち取り史上19人目、20度目の無安打無得点試合を達成。東農大二(群馬)との2回戦は1失点の完投勝利を挙げ、津久見(大分)との3回戦は延長14回を投げ抜いて2−3で惜敗した。プロでは西武、日本ハムで10年間プレーし、通算成績は238試合に登板し54勝47敗14セーブ、防御率3.64。今春が第90回だったセンバツ大会では2人が完全試合を達成している。

(次回は8月29日掲載)

 

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