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【特選!レジェンド校】

夏将軍の見えざる力 松山商

2018年7月31日 紙面から

1953年夏の決勝戦後、スタンドの応援団にあいさつする松山商ナイン(「松商野球部100年史」から)

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 目に見えぬ力を感じる時がある。絶体絶命の土壇場で起きる奇跡であったり、劣勢にありながら、さすが伝統校とうならせる横綱野球であったり。夏出場26回、優勝5回を誇る松山商(愛媛)は、まさに勝利の女神を味方につけたような劇的なプレーを数多く演じ、いつしか「夏将軍」の異名を持つようになった。屈指の名門がまとう「見えざる力」に迫りたい。 (文中敬称略)

野球王国・愛媛の雄

松山商との決勝に登板する三沢・太田幸司=1969年8月18日

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 過去99回の選手権を振り返るとき、必ず出てくるのが1969年決勝の三沢(青森)との引き分け再試合や、96年決勝の熊本工戦での奇跡のバックホーム。他にも、記録ラッシュの打棒で準優勝を果たした86年など多くの足跡を残す。夏将軍・松山商は、どれほどの感動を全国に届けたことだろう。

 奇跡のバックホームや86年の準決勝・浦和学院(埼玉)戦の11人連続安打など、神懸かり的な活躍も一つの特徴だが、一方で王者のプライドを強烈に見せつけるのもまた、松山商だ。

 19年の第5回大会に初出場。35年に初優勝。松山東として出場した50年は鳴門との四国対決を制し、2度目の優勝を果たした。野球王国・愛媛の揺るぎない強豪として全国から一目置かれる存在だ。

 ある種の使命ではなかろうか。53年の第35回大会。名投手・空谷泰(本名は児玉泰、元中日)が3試合完封勝利で決勝戦に臨んだ。相手は初出場の土佐だ。後に何度も甲子園に姿を見せるようになる土佐は、前年からセンバツに2年連続出場。初出場とはいえ、勢いがあった。準々決勝で浪華商(現大体大浪商、大阪)、準決勝で中京商(同中京大中京、愛知)という強豪を撃破しての決勝進出だ。

 しかも、周囲の「番狂わせ」の評価に土佐は反発する。正捕手で4番だった永野元玄(もとはる、82)は「当時、社会人チームの土佐電鉄とよく試合をやってましたから」と、優勝候補との対戦にも気後れすることはなかった。

空谷「神風」で安打

松山商からプロ入りし中日などで活躍した空谷泰

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 試合は初回、空谷の3四球などにつけ込み土佐が2点を先制。山本順三−永野のバッテリーは、快調に松山商打線を抑え込む。しかし、空谷も完全に立ち直り、8回に敵失で1点差とした松山商は土壇場の9回2死一、二塁から、空谷の中堅への飛球が浜風に押し戻される形でポテンヒットとなり、同点に。

 延長13回の死闘の末、軍配は松山商に上がる。「神風」とも称された空谷の安打。その直前には2ストライクからのファウルチップを永野が捕球できず「捕っていれば、ゲームセット。油断でした」というプレーもあった。こういうことが、起きる。見えざる力が松山商の背中を押し、新興チームに甲子園の厳しさ、怖さを伝える。伝統校の使命と思えるのだ。

 62年のセンバツベスト4のメンバーでOB会長も務めた御手洗健(73)は、同様の使命感を示した試合として90年夏、愛媛大会の決勝を挙げた。同年のセンバツで初出場準Vの快進撃が話題となった、新田との一戦だ。

 それまで、愛媛では私学が夏の甲子園の土を踏んだことはない。松山商は9回まで5−7の劣勢を追いつき、延長10回には1点ずつ奪い合い、11回表に決勝点。2度のリードを許しながらも、4度目の勝ち越し点で新田を破った。夏将軍の名にかけて、公立の牙城を守った。

 御手洗は「うちは、弱いと言われる学年が活躍する。弱さを認め、最後の夏を目標に徹底的に鍛える」。だから、夏に強い。大一番に強い。

泥にまみれて育つ

1996年夏の決勝で、延長10回裏熊本工1死満塁、本多の右飛で三塁走者星子が本塁を突くが右翼手矢野の好返球にタッチアウト。捕手石丸

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 同調するのが監督の重沢和史(49)だ。今治西出身。異例の“外様監督”は、就任9年目となった。OB会が選手の負担軽減を思い「グラウンド整備用のトラクターを買ってくれようとしたんですが、断りました。全員が、その手でグラウンド整備をしてから松山商の練習が始まる。僕はここで、この素晴らしい伝統を教わった」

 泥くさく、泥くさく。自らが育てたグラウンドの泥にまみれて、実は自らが育っていく。117年間、これを繰り返してきた。夏将軍は必ず、聖地での輝きを取り戻す。 (西下純)

無造作に置かれた「後世に残すべき」お宝

部室のスコアブック

 長い歴史を刻んできた松山商。重沢監督は就任してほどなく、部室に無造作に置いてあったスコアブックに気づいたという。「これは、後世に残すべきだ」。さすがに戦前のものはなかったが、昭和20年代以降のスコアブックがかなりの量、残っていたのだ。今は監督室に、年代順に並べられている。伝統校の戦いの記録はそのまま、歴史的な資料価値を持つ“お宝”だ。

 ▼松山商 1902年4月、愛媛県立商業学校開校に合わせ野球部も創部。19年夏に選手権初出場を果たすと、以降夏5回、春2回の全国制覇。戦前は藤本定義(元巨人、阪神など監督)、森茂雄(元大洋など監督)、景浦将(元阪神)、千葉茂(元巨人)らプロ草創期を支えた選手、指導者を輩出。戦後も藤原満(元南海)、西本聖(元巨人、中日など)、水口栄二(元近鉄など)らがプロに進んでいる。

【プラスワン】優勝旗が初めてテレビで中継された大会

1953年夏の甲子園

 松山商について回る“何か”は、グラウンド上の激闘や、奇跡的なプレーにとどまらない。

 今でこそ風物詩となった甲子園のテレビ中継だが、これが始まったのが1953年夏。つまり土佐との決勝戦、優勝旗を手にした映像がお茶の間に流れたのは、松山商が初めてということになる。

 また、21世紀となったことをきっかけに、選手宣誓がこれまでの組み合わせ抽選によるものから、各校主将の立候補制となったのだが、この時「手を挙げんと、監督に怒られるかも」と思った松山商・石丸太志主将が大役を射止めた。

 ちなみに、大正時代に始まった全国大会で春夏合わせてではあるが、年号として大正、昭和、平成の全てで日本一となっている学校は、松山商しかない。

優勝球を“取り損ねた”土佐・永野元玄 「あの時の50センチ後ろで見るため」審判員に

79年箕島−星稜で主審

1953年決勝戦の思い出を語る永野元玄

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 1953年に松山商との死闘を演じた土佐だが、春夏合わせて12度の甲子園出場も、全国制覇には至っていない。

 この決勝戦でマスクをかぶり、敗戦の悔しさから「あの時の、50センチ後ろで野球を見られる」と審判員になった永野元玄。79年の箕島−星稜の延長18回もジャッジした永野は、その後も松山商の戦いを見るにつけ「本当にしぶとい、“何か”を持った不思議な学校」と評する。

 一方で、土佐もいまだに根強くファンに愛される学校であり、永野も誇りを持っている。「中高一貫校なんですが、僕1人が別の中学。どうしても土佐高に行きたくて」と回想する。

愛される「文武両道」校

 文武両道。「練習後は部長のお宅で勉強してました」という学生の本分を堅持する姿も、土佐が愛されるゆえんだろう。

 全力疾走のトレードマークは誰もが知るところだが「実は、パイオニアは鳴門高校なんです」。51年秋の四国大会で、土佐は2年後に甲子園で戦う松山商(当時は松山東)、そして鳴門を破って初のセンバツ出場を決めている。

 この時の、鳴門の全力疾走の姿を見た当時の溝渕峯男監督が、自軍に採り入れたのが始まりという。四国の強豪が刺激し合って、レベルを高めていたことがうかがえる。

(次回は8月28日掲載)

 

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