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【特選!レジェンド校】

部員心得で鍛える精神 夏36度出場 松商学園

2018年7月24日 紙面から

松商学園の本校舎にある「歴史栄光室」。これまでの高校野球での足跡も多く展示されている

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 全国で2番目に多い夏の甲子園の出場回数を誇る松商学園(長野)は、終戦直後に作られた「部員心得」が精神面の支えとなっている。以来、約70年。信州の雄として、伝統のユニホームで甲子園を沸かせてきた。今夏の第100回大会の出場は逃したものの、名門校ならではの誇りを胸に、次の100回も高校球界の模範であり続ける。 (文中敬称略)

中島治康で全国V

 信州の人にとって、松商学園の野球は特別な存在だ。1928年には、後に日本プロ野球初の三冠王となった中島治康を中心に全国制覇。昨年まで36度の夏の選手権大会出場を果たしてきた。

 足立修監督(54)は「長野を制して甲子園に行くという目標は昔も今も変わりません。本気で狙う人が集まってきます」と胸を張る。自身も松商学園で79年から2年連続で夏の甲子園に出場。中学生の時から「松商で甲子園へ」と思い続けていたという。

 目標を立てることはたやすい。しかし、それだけで36度の出場を果たすことはできない。要因は何なのか?早大でプレーした後、社会人のプリンスホテルで選手、監督として活躍し、同社の人事担当も務めた足立監督が分析する。

 「心のよりどころを掲げてやってきたからではないでしょうか。会社でいえば理念や理想。目標に加えて心の持ち方や理念を受け継いできたからこそ、36度の夏の甲子園があると思います」

野球の心構え説く

 具体的に言えば、49年に監督に就任した胡桃沢清が作成した「部員心得」。15条で、野球に取り組む心構えを説く。フェアプレー精神に加え、戦前に松本で何度も指導した「学生野球の父」飛田穂洲の教えも入った心得は心の内面や人間力を重視。その根本を、OBで日本学生野球協会評議員も務めた宮坂真一(93)が語る。

 「胡桃沢先生は『選手である前に松商の生徒ということを最初に腹の中へ入れろ』という教育をしました。野球だけすればいいのではない。歴代の監督もこのことを厳しく受け継いできました」

松商学園では毎日、練習を開始する前に全員で部員心得を唱和する

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 部員心得は2014年に対外試合禁止処分を受けた後、足立監督の提案で全部員の話し合いによっていくつかの項目を見直し、新たな5条も加えた。ただ、第1条はそれまでと同じ「野球選手である前に松商学園生徒であれ」。「礼儀は和の基」「野球は社会に通じる」などの言葉も変わらなかった。根底に流れる精神は不変なのだ。

練習前に必ず唱和

 部員は、新しい部員心得を練習の開始前に必ず唱和する。「技術やテクニックは変わります。でも、意識や考え方といった野球の“核”は変わっていないと思います」と足立監督。現代の選手も同じ考えで、大和久竣矢(おおわく・しゅんや)主将は「松商のユニホームの誇りを感じてプレーしています」と言い切る。そして、宮坂はこう総括する。「松商は100回を通じて筋が通ってるんだ」

1928年夏の全国制覇の際、数万人といわれる市民が松本商ナインを出迎えた(「松商野球部百年史」より)

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 松本市民の後押しも原動力だ。市民は甲子園出場が決まれば後援会を作り、甲子園へ向かう。28年の優勝時には選手を出迎えようと数万人が松本駅前に集まったという。それはOBも同じ。宮坂によると、中島治康は6月になると後輩に技術指導を続けたという。“松商愛”の根源を宮坂はこう語る。

 「松商は松本の象徴なんです。昔はユニホームの文字が『MATSUMOTO』でした。街にみんなで応援しようという空気がありましたね」

 松商学園の野球は昔も今も、北アルプスの山々や国宝松本城と並ぶ街の誇りなのだ。 (川越亮太)

松商学園部員心得(旧)

一 野球選手たる前に松商学園生徒たれ

一 礼儀は和の基である

一 常に反省したならば失敗は少ない

一 態度、言語は率直明瞭であれ

一 清楚な美を持て

一 摂生に細心の注意を怠けるな

一 けじめをつけよ

一 野球は社会に通ずる事を忘れるな

一 常に斗志を持ち物事に自主的たれ

一 言い訳をするな

一 努力研究は完成への途

一 自我をなくし行動を共にせよ

一 確固たる信念を培養せよ

一 他人のものは無断で使用するな

一 用具を大切にする事は精進の表れ

松商学園部員心得(新)

一 野球選手である前に松商学園生徒であれ

一 礼儀は和の基である

一 常に松商野球部という和であることを忘れるな

一 常に謙虚であれ

一 態度・言語は正直・明快であれ

一 清楚な美は心から生まれる

一 我慢は自分のためである

一 健康管理に細心の注意を怠るな

一 常に反省したならば失敗は少ない

一 成長の場(グラウンド)に立つ以上闘志を持ち続けよ

一 逃げ道をつくるな

一 本気で努力・研究することは成功への道

一 確固たる信念を持て

一 自立心を養え

一 けじめをつけよ

一 凡事徹底を忘れるな

一 用具を大切にすることは精進の表れ

一 上級生は下級生が決め下級生は上級生が決める

一 野球は社会に通じることを忘れるな

一 全てのことにありがとう

 ▼松商学園 1898年に戊戌学会として創設。1911年に松本商業学校と改称され、戦後の学制改革により48年から松商学園となる。野球部は13年に創部され、中島治康(元巨人監督)を擁した28年夏の甲子園大会で優勝。24年夏、26年春、91年春には準優勝した。主なOBは土屋亨(元中日など)、堀内庄(元巨人)、川村一明(元西武など)、柳沢裕一(元巨人、中日など)、上田佳範(元日本ハム、中日、現DeNAコーチ)ら多数。女優の秋本奈緒美も卒業生。

夏38度出場 北海 受け継がれる研究心

「北海道高校野球の父」飛沢栄三が全国レベルに引き上げた

北海の飛沢栄三監督=1959年7月撮影

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 夏の選手権に最も多く出場しているのは北海(北海道)だ。1920年に北海道勢として初出場。今年は南北海道大会の準々決勝で敗れたものの、昨年まで38度の出場を重ねてきた。60年は春が4強、夏は8強で、秋の熊本国体では北海道初の全国大会優勝を達成。谷木恭平(元中日)や吉沢勝(元巨人)らを擁した63年のセンバツでは準優勝した。

 当時の監督が、「北海道高校野球の父」と評される飛沢栄三だった。20年に初出場した時の「2番・右翼」で、早大卒業時に大蔵省(現財務省)への就職が決まっていながら、母校からの要請に応えて北海道へ戻り、実質的に監督を兼ねた野球部長に就任。以後、37年間で夏18度(うち1度は病気で甲子園のベンチには入らず)、春8度の甲子園へ導いた。

冬場の板張りノック

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 昭和初期には米国から理論書を取り寄せるなど、早くから本場の野球を研究していた。60年の主将だった高屋敷日出夫(76)は「次に対戦するチームのスコアブックは全て持っていた。そのデータを基に、『この打者は内角を攻めろ』などと打ち合わせていた」と振り返る。

 北海道の野球は気候との戦い。当時は室内練習場がなく、積雪でグラウンドが使えない冬季は体育館でフリー打撃やノックに取り組む。遊撃手だった高屋敷は次のように思い出を語る。

 「板張りなのでノックの球足がむちゃくちゃ速い。それでも、先輩から『一歩でも早く前へ出ろ』と言われた。フリー打撃も、ネットを張っただけなのでガラスがよく割れた。バスケットボール部からは『野球部は横暴だ』と文句を言われた」

 2011年夏に出場した時のエースだった玉熊将一(現明治安田生命)は「入学すると、先輩からは『うちは伝統校だから甲子園に出なくてはいけない』ということをたたき込まれた」と話す。飛沢が全国レベルにまで引き上げた古豪は、伝統の継承にも力を入れている。 (堤誠人)

【プラスワン】監督が腰を据えて強化に取り組む

北海と松商の共通点

 松商学園と北海に共通しているのは、監督が腰を据えて強化に取り組んでいることだ。松商学園の足立監督は就任8年目で、北海の平川敦監督(47)は同21年目。以前も、数年で退任した例はあまりない。

 平川監督は就任2年目の1999年夏に甲子園出場を果たした後、2008年夏まで聖地から遠ざかった。「先輩方は甲子園に出て当たり前だと思っている。08年は崖っぷちだったし、地方大会で負けていたら今いないかもしれない」

 同校の最長ブランクだった10年に迫り、07年には夏の出場回数を松商学園に抜かれたことで危機感を感じたという。

 夏は昨年まで3年連続出場。伝統に固執しない姿勢が結果につながっているようで、OBの玉熊は「伝統校なのに、これはやらないといけないなどということがない。自分たちの時も日曜日は練習が休みで、他校から驚かれた」と平川監督の手腕に感心する。

 近年、甲子園出場から見放されている古豪の中には「成績が出ていないから」と2〜3年で監督を代える学校もある。OB会の発言権が強く、監督の座が「名誉職」となっている学校ほど、このような傾向が強い。

(次回は7月31日掲載)

 

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