トップ > 中日スポーツ > スポーツ > 特選!レジェンド校 > 記事

ここから本文

【特選!レジェンド校】

高め合う両雄 鹿児島実・久保克之名誉監督 樟南・枦山智博元監督

2018年6月5日 紙面から

(左)2003年夏、甲子園練習で笑顔でグラウンド入りする樟南の枦山監督(右) (右)久保監督が率いた鹿児島実は1996年のセンバツ決勝で智弁和歌山を破り、鹿児島県勢初の全国制覇を果たした 

写真

 名監督には互いに認め合い、高め合うライバルがいる。現在はともに監督から退いているが、鹿児島実の久保克之(80)と樟南の枦山(はぜやま)智博(74)はその代表格だ。甲子園通算勝利数はともに春夏計26勝ずつ。樟南が1994年に夏の全国選手権で県勢初の決勝に進めば、96年のセンバツ大会では鹿児島実が県勢初の頂点に立った。鹿児島の高校野球を全国区へと導く原動力になった両雄の軌跡を追った。 (文中敬称略)

長いライバル関係

 先に指導者の道を歩み始めたのは久保だった。1967年、当時29歳。鹿児島実初のOB監督誕生となった。その5年後の72年、枦山も母校の樟南(当時鹿児島商工)の監督を引き受け、長く激しいライバル関係がスタートした。

 当時は鹿児島商が甲子園の常連校で、壁だった。久保はノック中心に鍛え上げた。1日1000本以上。「ガッツ」と選手にあだ名された熱血ぶりに、距離を詰めていく「けんかノック」など鬼気迫る猛練習を「選手よりも先に自分が倒れるかと思った」と振り返る。

 72年春、監督として初の甲子園出場を果たすと初戦の取手一(茨城)戦に3−0で勝利。春夏計3度目の出場だった鹿児島実の甲子園初白星だった。手探りだった指導方法に自信を深めるきっかけになった白星だった。

定岡擁し初の4強

1974年夏、富山・高岡商との3回戦で2試合連続完封勝利を飾った定岡(左)

写真

 74年夏は定岡正二(元巨人)を擁して県勢初の4強。準々決勝では原貢監督、辰徳(元巨人)親子の優勝候補、東海大相模(神奈川)を延長15回で破った。NHKのテレビ中継が途中で打ち切られ、苦情が殺到した名勝負は続きがあった。「その秋の国体、翌年の招待野球と、監督として3試合すべて勝たせていただいた」と胸を張る。

4連続バント奇策

 全国で名を上げた「鹿実」を追う枦山。「いい選手がうちに来ない中でどう戦うか。誰でもできるバントに活路を見いだした」。転機は同校の夏の甲子園初勝利を挙げた82年の秋田経大付(現明桜)戦だ。1点を追う7回1死から4連続バントを絡めて逆転勝ちした。

 全てサインだった。「翌日、箕島(和歌山)監督の尾藤公に『おまえ、すごいことをやるな』と褒められた」。バントを生かし、機動力で1点を守り抜くスタイルを磨くきっかけとなった。

1994年夏決勝、枦山監督が率いた樟南はエース福岡が9回に決勝の満塁本塁打を浴びて涙をのんだ

写真

 決勝が佐賀商との九州対決となった94年夏は福岡真一郎、田村恵(元広島)の超高校級バッテリーを軸に準優勝。実はこのシーズン、鹿児島実には春の九州大会決勝で敗れるなど、夏の鹿児島大会決勝まで一度も勝っていなかった。宿敵を下した勢いで駆け上がった。

センバツで優勝旗

 久保の鹿児島実も黙っていない。2年後の96年春には、鹿児島に初めて紫紺の優勝旗をもたらした。エースの下窪陽介(元横浜)を中心とした守りの野球。「桜島打線」と形容された豪快さだけではない、久保野球の懐の深さを示した。

 春の全国王者の勢いもあり、96年から鹿児島実が3年連続で夏の甲子園へ。すると、枦山の周囲から辞任を求める声も起きたという。「悔しさが力になった」と99年からは樟南が5年連続で夏の甲子園に出場した。

 2人が指導する間で記憶する練習試合はたった1度だけ。枦山は「最初のころ。記憶では、こちらはレギュラーで臨んだが向こうは控え中心。負けじ魂に火が付いた」と二度と申し込まなかった。「殺気というか、選手も何か感じるものはあったと思う」。強い対抗心は選手同士にも波及した。

 試合前のグラウンド整備ではどちらが先に整地するかを争い、整地用具のトンボは取り合いとなった。小競り合いが毎回起きたという。久保監督の下での最後の主将だった本多雄一(ソフトバンク)は「樟南に何事も負けられない気持ちだった」と懐かしむ。

営業マン経験積む

 ともに20代で監督に就くまでは営業マン。社会人生活の経験も指導の根幹に落とし込んだ。礼儀、あいさつ…。教員でもあった久保は社会で通用する人材育成のため、人間教育に重点を置いた。本多は「今も『裸練』が忘れられない」と苦笑いする。早朝、真冬でも上半身裸で走り込む伝統の練習。体力強化以上に精神修養が目的だった。

 母校の事務職員として野球指導に徹した枦山は、顧客の気持ちをつかむために養った観察眼を采配に生かした。投手出身ということもあり、相手の監督や投手の心理を表情やしぐさから読んだ。主将を務め、99年夏4強の鶴岡慎也(日本ハム)も「けん制のタイミング、スクイズの外し方など見抜く力はすごかった」と舌を巻く。

「夏優勝」約束も…

 2002年に久保が勇退。枦山に「紫紺(春の優勝旗)は取ったから、深紅(夏の優勝旗)は任せた」とエールを送った。一方の枦山は張り合いを失った。「寂しく、帆の折れた船が海に浮かんだ感じだった」。翌03年から10年に退くまで夏の甲子園に3度出場したが、最高は05年の8強。約束は果たせなかった。

 鹿児島実は久保の監督退任後、甲子園に春夏計6度出場。樟南は枦山の監督退任後、夏に2度出場した。16年夏の鹿児島大会決勝は両校が激突し、引き分け再試合の末に樟南が3−2で鹿児島実を下し、19度目の夏切符をつかんだ。両雄が残した「イズム」は脈々と継承されている。 (大窪正一)

 ▼鹿児島実 1916年、鹿児島実業中学館として創立した私立校。48年から現校名。野球部は18年に同好会として発足し、創部。甲子園は春9度、夏18度出場。主なOBは内之倉隆志(元ダイエー)、杉内俊哉(巨人)ら。サッカー元日本代表の遠藤保仁(G大阪)も卒業生。サッカー部、陸上部なども全国制覇の経験がある強豪。

 ▼久保克之(くぼ・かつゆき) 1938(昭和13)年2月10日生まれ、鹿児島県南さつま市出身の80歳。鹿児島実では投手、外野手、主将として活躍。日大卒業後、67年に母校の監督に就任。2002年までの監督生活で甲子園に19度(春7度、夏12度)導き、1996年春のセンバツ大会で鹿児島県勢初の全国優勝。監督退任後は野球部長、総監督、名誉監督を歴任。

 ▼樟南 1883年、博約義塾として開校した私立校。校名は博約鉄道学校、鹿児島鉄道学校を経て1950年から鹿児島鉄道高、60年から鹿児島商工高、94年から現校名。野球部は54年創部。甲子園は春7度、夏19度出場。主なOBは大西崇之(元中日、現巨人外野守備走塁コーチ)、大和(DeNA)ら。大相撲の二所ノ関親方(元大関若嶋津)も卒業生。

 ▼枦山智博(はぜやま・ともひろ) 1944(昭和19)年5月28日生まれ、鹿児島県垂水市出身の74歳。鹿児島商工(現樟南)時代は主将、投手。社会人時代は投手で国体に2度優勝。72年に母校の監督に就き、2010年までの監督生活で甲子園に23度(春7度、夏16度)出場に導いた。1994年夏の全国選手権で鹿児島県勢最高となる準優勝。

【プラスワン】神村学園など新しい力も台頭

鹿児島の高校野球

 久保と枦山が全国区に押し上げた鹿児島の高校野球では、新たな力も台頭している。2005年春は神村学園がエースの野上亮磨(巨人)を擁して初出場で準優勝。春5度、夏4度の甲子園出場と常連校の仲間入りをした。

 06年夏も初出場の鹿児島工が4強。エースの榎下陽大(元日本ハム)や、「しゃーっ」の雄たけびで人気者になった代打の切り札・今吉晃一らが活躍して旋風を巻き起こすと、08年には春も初出場を果たした。

 13年春は尚志館、14年夏は鹿屋中央がともに春夏通じて初出場し、初戦を突破した。14年春は奄美大島の県立高、大島が「21世紀枠」で県内離島校として初めて甲子園の土を踏んだ。伝統校も新興勢力も、鹿児島県勢が悲願とする夏の全国制覇を狙っている。

(次回は6月12日掲載)

 

この記事を印刷する

PR情報

閉じる
中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日スポーツ購読案内 東京中日スポーツ購読案内 中日新聞フォトサービス 東京中日スポーツ