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【特選!レジェンド校】

無敵の初戦 静岡商 藤波行雄が語る秘けつ「全国で勝つことが目標だった」

2018年5月8日 紙面から

 どんな強豪校や名門校でも、甲子園で勝つことは難しい。ところが、静岡商は夏の選手権大会に9度出場し、全て初戦を突破している。最近は思うように出場できないが、かつては夏の大会で2度の準優勝を誇る古豪。50年前の第50回大会で活躍した藤波行雄(67)らによると、猛練習で培った強い精神力と、小技を確実に決める技術力が背景にあるようだ。 (文中敬称略)

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休み返上猛練習

 静岡商が夏の甲子園の初戦に強い理由を、藤波は次のように語った。

 「全国で勝つことが野球部の目標だった。全国で勝つチームでないと予選は勝てない。そう教え込まれた。それが伝統になっていると思う」

 高い目標を設定し、日ごろから大舞台での勝利を視野に入れながら猛練習を積んだ。1967年夏の静岡大会で初戦敗退を喫すると、そこからは休みなし。どこよりも練習したという自信が、チームに無形の力を与えた。「甲子園に出たい」と憧れるだけのチームとは心掛けが違う。

一戦ごとに強く

 節目の第50回大会もそうだった。前評判が高くなかった静岡商は一戦ごとに力をつけ、決勝は興国(大阪)に0−1で敗れたものの2度目の準優勝。2年生ながら全試合に「3番・右翼」で出場した藤波は、決勝を除く5試合で打点を挙げるなど計20打数7安打8打点と活躍した。

 当時は木製バットの時代。好投手を擁するチームが強く、好機が少ないため、バントなど小技の巧拙が勝敗を左右することが多かった。

 藤波は「木のバットでは5点以上を取れない。うちはバントとスクイズで勝つ野球。倉敷工(岡山)との準決勝でも1−0の3回に3番の僕がスクイズ。あとはエースの新浦(寿夫、のち巨人など)が頑張れば、というチームだった」と振り返る。

(左)準決勝で倉敷工を完封し、捕手鈴木五郎(右)と喜びの握手を交わす静岡商・新浦寿夫=1968年甲子園球場で(右)第56回大会で力投する静岡商の高橋三千丈

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 この試合は、2回の先制点もスクイズで挙げている。2点のリードをもらった新浦は倉敷工を5安打に抑え、大会3度目の完封。持ち味を十分に生かした試合だった。

 その後も、甲子園では初戦で負けなかった。金属バットが解禁された74年は8強進出。3試合とも1失点ずつに抑えたエースの高橋三千丈(のち中日)は「初戦に強いという意識はなかったが、勝つのが当然というのはあった」と話す。

低迷期経て2006年に32年ぶり白星 大野健介が奮投

2回戦で敗れ、涙を流しながら甲子園の砂を拾う静岡商の大野健介=2006年8月14日

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 長い低迷期の後、2006年に32年ぶりの出場。1回戦は八幡商(滋賀)に快勝した。この頃は初戦に負けないという伝統がチームに浸透していたようで、2年生エースだった大野健介(現ヤマハ)は次のように話す。

 「初戦に負けていないという話はOBからよく聞かされていた。甲子園で1勝したいという目標を掲げてやってきたし、伝統を途切れさせてはいけないという気持ちがあった」。攻撃でも大会最多タイ記録の1試合9犠打を決めるなど伝統の力を発揮した。

 1950〜70年代の静岡は、全国でも有数の強豪県だった。「どこが出ても、そこそこやれるだけの能力を持っていた」と高橋。優勝こそなかったが静岡商が54、68年、静岡が60、73年に準優勝したほか、71年は静岡学園、72年は東海大工(現東海大静岡翔洋)が8強入りした。

県内で私学台頭

 だが、平成になると静岡県勢が上位に進むことが少なくなった。8強以上は常葉菊川(現常葉大菊川)が2007年に4強、翌08年に準優勝した2度。直近の8年間で初戦を突破したのは1度しかない。私学の台頭で群雄割拠の時代となり、静岡や静岡商も簡単に静岡大会を勝ち抜くことができなくなった。

 「昔は静商(せいしょう)のユニホームに負けた、という話を聞いた。今は、対戦相手が『静商なら何とかなる』と思っている」。寂しそうに語る藤波の口調が現状を表している。

 (堤誠人)

優勝信じたゆえの「祝準優勝」 式典での珍横断幕

第50回大会で準優勝し、静岡駅前での式典で市民から声援を受ける静岡商の選手。横断幕の「準」の文字が小さいことが分かる

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 興国との第50回大会決勝で、静岡市民は静岡商の勝利を疑っていなかったようだ。大会直後、静岡駅前で行われた式典で使われた横断幕には「祝準優勝」と書かれているが、文字の大きさが不自然。藤波さんは「優勝すると思っていたら準優勝だったので、狭いスペースに慌てて『準』の文字を入れたみたい」と苦笑いを浮かべる。関係者の落胆ぶりが伝わってくる。

 ▼藤波行雄(ふじなみ・ゆきお) 1951(昭和26)年4月26日生まれ、静岡市出身の67歳。静岡商2年で夏の甲子園大会準優勝。中大では1年春からレギュラーで東都大学リーグ優勝3度、ベストナイン5度。4年時の73年は大学選手権に優勝した。ドラフト1位で74年に中日入団。外野手や代打として2度のリーグ優勝に貢献し、87年限りで引退。実働14年間の通算成績は1146試合出場で打率2割7分3厘、24本塁打、186打点。引退後はテレビの解説者や静岡商の外部コーチなどを務めた。

 ▼静岡商 1899年に静岡市立静岡商業学校として開校。1948年に現校名となる。通称は静商(せいしょう)。野球部は28年に創部され、甲子園大会には春6度、夏9度出場。52年のセンバツはエースの田所善治郎(元国鉄)が全試合を完封して優勝した。夏は2度の準優勝が最高。主なOBは杉山光平(元南海など)、池谷公二郎(元広島)、大石大二郎(元オリックス監督)ら。歌手の久保田利伸も卒業生。

2年連続静岡4強 浜松商に復活の気配

磯部修三ら指導者輩出

 静岡県は長らく静岡、静岡商、浜松商の3強がしのぎを削ってきた。ただ、現在は商業の2校にかつての勢いがなく、静岡対私学の構図となっている。

 1980年に浜松商が初めて8強入りした時の主将だった小松直樹(元NTT東海監督)は「チームを強くするにはいい選手を呼んでくるしかない。いい選手が集まらないんですかねえ」と母校の現状に歯がみする。

 浜松商の猛練習は有名だ。日付が変わった後まで練習を続けることも珍しくない。78年のセンバツで優勝した時は、全国でも3本の指に入る練習量だと言われた。小松は「独特の緊張感があった。決してあの頃に戻りたいとは思わない」と苦笑いを浮かべる。

 精神面を鍛えられたチームは修羅場に強い。75年の石川(沖縄)戦は9回に大会史上初の逆転サヨナラ本塁打が飛び出し、7点を先行された84年の智弁学園(奈良)戦は2点を追う9回に3点を奪った。劇的な試合が多いのが浜松商の特徴だ。

(左)第62回大会2回戦の大分商戦で選手に指示をする浜松商の磯部修三監督(右)当時主将を務めた小松直樹。NTT東海監督時には岩瀬仁紀を指導した

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 優れた指導者も多い。センバツを制した磯部修三や、84年からの13年間で春夏計7度の甲子園出場を果たした上村敏正は県内の他校でも甲子園に導いた実績がある。また、センバツ優勝時の主将だった森下知幸は2007年のセンバツで優勝した常葉菊川の監督。小松もNTT東海で中日の岩瀬仁紀らを指導した。

 就任5年目の鈴木祥充監督も、静岡の監督だった1999年に高木康成(元オリックスなど)らを擁して春は19年ぶり、夏は12年ぶりに古豪を復活させている。低迷していた浜松商は一昨年夏、昨夏と2年連続で静岡大会4強。鈴木監督は「集大成の夏に照準を合わせている。過去の2年間を知っている3年生に、好素材の1、2年生がかみ合えば楽しみ」と復活を見据える。

【プラスワン】高松商、松山商…遠ざかる「全国」

公立商業高の弱体化

 公立商業高校の弱体化は静岡県に限らない。夏の優勝6度の広島商は13年、同5度の松山商は16年、同2度の高松商は21年も夏の甲子園から遠ざかる。さらに、松山商以外は出ても1勝するのがやっとという状態だ。

 一般論として女子生徒が多くなったことや、大学進学に有利な普通科や大学付属の私学を志望する生徒が増えたことなどを理由に挙げる関係者は多い。

 このほか、静岡商OBの高橋は「選手の一極集中」を指摘する。「今は野球留学がすごい。われわれの頃もないことはなかったが、スカウティングはしていなかった。今は一部私学の力の入れ方が違う。時代がそういう方向に行っている」

 環境面の違いも大きい。ほぼ野球部専用といえる室内練習場を持つ浜松商でも、平野隆康コーチは「私学との違いは合宿の設備。野球に没頭できる時間が違う」と他校をうらやむ。社会人でプレーする大野は「スカウティングや指導者の人材などいろんなことがかみ合った場合か、ものすごくえげつない投手がいた場合は期待できるかも」と母校の復活に期待を寄せている。

 

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