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【特選!レジェンド校】

木内マジックの真骨頂 取手二

2018年4月25日 紙面から

 熱闘の裏に数多くのドラマがあった。1984年夏の第66回大会で優勝した取手二(茨城)も、2年生だった桑田真澄、清原和博のKKコンビのPL学園(大阪)を決勝で倒して栄光をつかむまで、濃密なドラマの連続だった。監督だった木内幸男(86)、主将で遊撃手だった吉田剛(51)=元近鉄など、捕手で優勝を決める本塁打を放った中島彰一(51)=現新日鉄住金鹿島監督、二塁手だった佐々木力(51)=現常総学院監督=に当時を振り返ってもらった。 (文中敬称略)

取手二−PL学園 (左)10回表1死一、二塁、中島が左中間へ決勝3ランを放ちガッツポーズ。ベンチのナインも大喜び(右)優勝の瞬間、抱き合って喜ぶ取手二ナイン。左から佐々木、石田、中島。右端の(6)は吉田=1984年8月21日、甲子園球場で

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型破りの連続

 「この時代が一番面白かったなぁ」。84年夏の甲子園、取手二の優勝について木内に聞くと開口一番、こう言った。大会だけでなく、優勝までの過程も型破りなことの連続で、思い出深いのだ。

 まずは6月のボイコット事件。中島がこう回想する。「関東大会の後、監督が『おまえらに1週間休みをやる』と言ったのです。その年のセンバツで8強となり、ちょっと鼻が高くなっていた戒めもあったのでしょう。まあ休みと言われれば遊ぶのが高校生。授業が終わったら映画やゲームセンターに行くやつが結構いましたね。ただ、1週間の休みの後『メンバーに休みとは言ったが補欠の3年には休みをやってない。補欠の3年はクビだ』と言われ、そこから1週間ほどみんなでボイコットになりました」

 それでも、木内に焦燥感はなかった。「ボイコットの時はグラウンドでゴルフの練習をしてたなぁ。あの学年は野球を通して世の中に出ていこうという子が多かった。絶対辞められねえと思っていた。ゴタゴタが起きて、ビシッといい方向へ行く。しめたと思った」という。「遊びに夢中だった」と笑う吉田も「夏の大会は当然やる(出る)と思っていた」。

チームが団結

 選手は6月24日に水戸市民球場で組まれたPLとの招待試合へ向けて再集合。2週間も休み、エースの石田文樹(故人)は右肩痛で投げられず、桑田にピシャリと抑えられた。0−13で惨敗したが、これが大きな転機となる。「みんな打撃を見直そうとなり、コンパクトなスイングを心掛けるようになった」と佐々木。一方、ひょんなことが内面の変化をもたらしたというのは中島だ。

 「試合後、新聞記者がわれわれに『これで茨城ナンバーワンのチームですか、と桑田が言っていたぞ』と言ったんです。『ナニッ、2年生がなめんじゃねえぞ』と燃えてきましたね」

 ただ、桑田は「そんなこと言うはずがない」。中島も「よく考えれば桑田は言わないと思う。木内さんの差し金かな、とも…」。その木内は「俺もそこまではやらない」。何かが間違って伝わったのか、解釈を間違えたのか、まさに謎だが、中島は「ここからチームがまとまり1回も負けなかった」と回想する。

(左)中島彰一(現新日鉄住金鹿島監督)(中)吉田剛(現在は大阪市内で飲食店経営)(右)佐々木力(現常総学院監督)

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巧みに心操る

取手二高の校内に飾ってある閉会式後の場内一周時のパネル。先頭が吉田、続くのが中島。前から6人目が佐々木

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 甲子園では、木内が巧みに選手の心をくすぐりながら勝ち進んだ。5−3で逆転勝ちした初戦の箕島(和歌山)戦は「1つ勝ったら海水浴行くか」と試合中に呼び掛けていたが、「海水浴に行った須磨海岸は波が高くないから危険でない。水温が高いから肩を冷やす心配もないと調べてあった」と笑う。

 決勝で9回のピンチを切り抜けて延長になると「3年生で野球をやれるのおまえらだけ。もったいないから早く終わるな」と言った。「10回の打順はウチが上位からでPLは下位へ行く。ここで勝負、と思うところで焦るなということだったんでしょうね」。こう振り返る先頭の2番・佐々木の中前打からチャンスをつくり、中島が決勝3ラン。さらに1点を加えた。桑田をKOして、勝った。

 代名詞のマジックを連発し、自身初優勝となった木内は「一晩中言葉を考えて、明日は何を話すべと予行演習もしたなあ」。そして「はね返りと世間では言われたが、野球に関してはあんなに勝ちたがって一生懸命やった子はいない。大したもんだ」と、優しいまなざしで教え子たちに思いをはせた。 (井上洋一)

夏の決勝仰天ワンポイント

同じく校内に飾ってある写真。吉田(左から2番目)の親戚宅の裏で、大会後に取手二を訪ねてきた桑田(左から3番目)や吉田の親戚と記念撮影=茨城県取手市で

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 決勝の9回裏には仰天の木内マジックだ。先頭の1番に同点弾、2番に死球。左の3番・鈴木英之を迎えると、動揺の見えた石田を右翼に行かせ、左腕の柏葉勝己を投入した。鈴木のバントを中島の好守で一塁走者を二封すると、再び石田。落ち着きを取り戻した右腕は清原を三振、桑田も打ち取った。

 吉田が「そこまで二塁打2本の鈴木にバントをさせた。あれで優勝した」とうなったワンポイント采配。木内は「センバツの準々決勝の岩倉(東京)戦が伏線」という。1点リードの8回2死二塁で石田が左の内田正行に同点打。その後に逆転打を浴びて負けた。「柏葉をつぎ込めば勝った可能性があった。俺は春で勉強してたんだ」と明かした。

夏の大会後に桑田も訪れた

 大会後、取手二がどんな環境だったのかを知りたがった桑田が茨城までやって来た。「特別な器具があるわけでもないし、あまりにも普通の学校に負けたのかって、驚いていたみたいだね」と中島。自宅に泊めた吉田は「おまえらは全寮制で一日中野球やってるのに、公立で家から通っている俺らに何で負けるの、なんて話をしたなあ」と懐かしそうだった。

 ▼取手二 1922年、北総実修学校女子部として創立。その後に女学校となり、男女共学になった49年から現在の校名。野球部は50年創部。甲子園は夏4度、春2度出場。84年Vメンバー以外の主なOBは松沼博久、雅之兄弟(ともに西武)、大野久(元阪神など)ら。

 ▼木内幸男(きうち・ゆきお) 1931(昭和6)年7月12日生まれ、茨城県土浦市出身の86歳。土浦一高時代は外野手。取手二、常総学院の監督として甲子園に22回出場(春7回、夏15回)。優勝は夏2度(84、2003年)、春1度(01年)。甲子園通算40勝(春13勝、夏27勝)は歴代7位。11年に引退。

【プラスワン】「真っすぐもカーブもほぼ同じ握りです」

桑田のすごさ

 決勝の延長10回表1死一、二塁、左中間へ優勝を決める3ランを放った中島。見逃せばボールという真ん中高めの直球を、大根切りのフルスイングで仕留めたことに「桑田がセットする時、真っすぐの握りが見えた」と言ったが、大会後に高校日本選抜チームで一緒になった桑田から衝撃の事実を告げられた。「僕、真っすぐもカーブもほぼ同じ握りです」

 3回表無死二、三塁でスクイズを失敗した佐々木にも同様の体験がある。「真っすぐの握りが見えて高めの球にバットを合わせにいったら、実はカーブ。すごく曲がって空振りした」。佐々木も大会後、桑田に「真っすぐの握りが…」と言うと「握りは同じ」との答え。2人にとって、桑田のすごさを実感した忘れられない出来事だ。

【87年準優勝・常総学院】

「中16時間14分」での連続完封 語り草となった島田直也の222球

(左)1987年夏の甲子園2回戦で沖縄水産を3安打完封した時の常総学院・島田直也(右)昨年までDeNAで2軍投手コーチを務めた

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 取手二の全国制覇から3年後、1987年の第69回大会で、木内は常総学院を率いて夏の甲子園に帰ってきた。決勝で因縁のPLに負けたものの、準優勝。原動力になったエースの島田直也(48)=のち日本ハムなど=は、木内を追って常総の門をたたいていた。

 「僕が中3の時に取手二が優勝して、その監督さんが常総へ行くと聞いた。そこへ行けば甲子園に行けるだろう、と単純な考えでした。ただ、同じ考えの新1年生が150人いました」

 新入部員は5班に分けられた。「Aは面倒を見る、Bは頑張ってくれ、Cは目立ったら使う、Dは野球が好きならやってください、Eは見ることはない、で僕はDでした」という島田は、そこからはい上がった。

 夏の甲子園では全6試合を一人で投げ抜いた。中でも、2回戦の沖縄水産戦と3回戦の尽誠学園(香川)戦の連続完封は、今も語り草だ。

 沖縄水産の上原晃(のち中日など)、尽誠学園の伊良部秀輝(のちロッテなど、故人)と評判の2人に投げ勝っただけでなく、試合間隔も特殊。8月16日に120球を投げた沖縄水産との試合は午後3時46分終了。尽誠学園とは、翌17日午前8時開始の第1試合だった。

 「さすがに立ち上がりは体が重かった」というが、9イニングで102球を投げた。そんな姿を覚えている木内は「あの子は投手をやるのが好き。約60年の監督生活で一番使いやすかった」と最大級の賛辞。島田も「投げるのが好きだった。楽しかった」と振り返った。

(次回は5月8日掲載)

 

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