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【特選!レジェンド校】

星稜 原点は「がむしゃら」

2018年3月13日 紙面から

 甲子園史上最高の試合は、この試合を抜きに語ることはできない。1979年8月16日、第61回大会の3回戦で相まみえた星稜(石川)対箕島(和歌山)。延長18回、箕島がサヨナラ勝利を挙げるまでに数え切れないドラマがあった。語り尽くされた試合。しかし、まだ語られていないドラマを掘り起こしたい。 (文中敬称略)

79年は6度目聖地

 今春のセンバツで春夏通算30度目の甲子園出場を果たす名門・星稜。1979年夏はまだ、通算6度目の出場だった。

甲子園練習で1人青のユニホームを着た山下(前列右から2人目)

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 面白い写真がある。開幕前、甲子園練習の日に撮影する、集合写真。星稜伝統の、クリーム色のユニホームに身を包んだレギュラーたちと、白の練習用ユニホームの控え選手、引率の先生。1人だけ、青のユニホームで写っている。

 他でもない、監督・山下智茂だ。

 笑われて、バネにして。その繰り返しで星稜野球部を育て上げた。山下は「ポロシャツの胸に、マジックで『甲子園』って書いて授業してたんです」と言う。

 創部6年目、67年に監督就任した山下は、身に着けるものほとんど全てに「甲子園」と書いた。当時「県立に落ちた子が、うつむき加減に通う学校」だった星稜の雰囲気を変えたい。甲子園に行けば、全校生徒の自信になると信じ、笑われようが真顔でその文字を入れていたのだ。

 79年、山下のユニホームだけが青かったのも、その延長線上にある。“思い”を体現したのだ。

 この大会はセンバツ優勝の箕島のみならず、牛島和彦−香川伸行のバッテリーを擁する浪商(現大体大浪商=大阪)も出場。池田(徳島)も優勝候補に数えられた。そして神奈川大会決勝で愛甲猛の横浜を破った横浜商も、ジャンボ宮城こと宮城弘明というスターの存在もあって、大注目されていた。

 だから山下は甲子園練習、前代未聞ともいえる他校・横浜商と同色のユニホームを身に着け、選手たちに、強く意識付けさせたかったのだ。

生涯最高のお手本

 ただ、この思いは実らない。横浜商と対戦する前に、箕島が立ちはだかった。いまだに史上最高の試合ともうたわれる、延長18回の死闘だ。

 詳細は、省略する。4回に、星稜のエース・堅田外司昭が自らの適時打で先制。するとその裏、箕島はキャプテン・上野山善久の安打を足掛かりに追いつく。そこで、試合が固まった。5回、6回、9回を終えても1−1で動かない。

1979年夏、星稜−箕島戦は延長18回の死闘の末、箕島の劇的なサヨナラ勝ち=甲子園で

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 延長12回、ようやく星稜が敵失に乗じて勝ち越すと、その裏、箕島は嶋田宗彦が2死無走者から同点本塁打。16回にも星稜は勝ち越したが、その裏、これまた2死無走者で、箕島・森川康弘が同点弾。18回、堅田が力尽きて、勝利の女神は箕島にほほえんだ。

 山下は「現在があるのはあの試合のおかげ」と言う。史上最高の試合を指揮したことで自身も、星稜も評価が高まった。尾藤公(ただし、2011年に死去)という生涯の盟友、最高のお手本を得られた。

 しかし何より、負けても自身の野球観は正しかったと認識できたことが、山下のその後の励みとなったのではないか。

 2度目の勝ち越しとなった延長12回。敵失は、流行性耳下腺炎(おたふくかぜ)を押して出場し続けた箕島・上野山主将によるものだ。この打球を放った石黒豊は、上野山のユニホームが鼻血で赤く染まっていることに気づいた。選手たちはベンチで口々に「アイツ、大丈夫ですかね」と気遣った。

 「みんな、相手を思いやれる選手に育ってくれていた。そこで『この試合、どうなってもいい』と思えたんです」と山下。試合後、箕島ナインは歓喜の涙を流した。星稜ナインは皆、笑顔だった。

 横浜商は、準決勝で箕島が倒した。山下は2005年に勇退、甲子園での頂点はならなかったが、星稜のユニホームを着ないで甲子園に現れるがむしゃらの尊さを説いた指導こそが、今も星稜野球として息づいている。 (西下純)

 ▼星稜 1962年4月、実践第二高等学校として開校。野球部も同年創部。67年、山下智茂監督が就任すると72年夏に甲子園初出場、76年の選手権では小松辰雄(現中日スポーツ評論家)を擁しベスト4進出。今年のセンバツが春夏通算30度目の甲子園となる。主なOBは小松、村松有人(元ダイエーなど)、松井秀喜(元巨人、ヤンキースなど)、山本省吾(元オリックスなど)ら多数。

 ▼山下智茂(やました・ともしげ) 1945(昭和20)年2月25日生まれ、石川県出身の73歳。石川・門前高では内野手。駒大を経て、66年から星稜高の社会科教諭。67年に監督就任。春夏計25度の甲子園出場で通算22勝25敗。95年夏に準優勝。2005年9月に監督を退任し、総監督に就任。現在は名誉監督となり、また若手指導者を育成する甲子園塾塾長も兼ねる。

スパルタへの反省が生んだ尾藤の哲学 「絶対に手を上げるな」

涙ながらに後進を指導

山下と肩を組み、笑顔を見せる尾藤公(右)=2009年9月、甲子園で

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 星稜との死闘を演じ、春夏連覇を果たした箕島。甲子園初出場は創部40年となった1968年春。夏は70年が初めてだった。尾藤の就任は66年。

 東尾修、島本講平、吉井理人…。多くのプロ野球選手を輩出。それだけ選手にも恵まれたという見方もできるがやはり、それを鍛え上げたのは、尾藤だ。

 スパルタだったという。時代もあったろう、鉄拳制裁も数多くあった。95年に勇退後、日本高野連常任理事を務め、2008年には全国の若手指導者を対象とした研修会「甲子園塾」の初代塾長となる。

 高野連事務局長を長年務め甲子園塾立ち上げに深く関わった田名部和裕は、座学では自身の失敗も教材とし、涙ながらに「絶対に手を上げるな」と指導者に説く尾藤の姿を何度も紹介している。

 熱血と、スマイルと。希代の名将は、星稜戦のみならず、この年の決勝、池田戦も大逆転勝利。82年春2回戦の明徳(現明徳義塾=高知)戦は延長14回、83年夏1回戦の吉田(山梨)戦は延長13回と球史に残る試合のいずれも、なぜか4−3で勝っている。

子に受け継がれる伝統

箕島で練習試合

試合後、握手を交わす箕島・尾藤強監督(右)と星稜・山下智将部長=箕島高グラウンドで(佐藤厚撮影)

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 伝統は子の世代に引き継がれている。11日、和歌山県有田市の箕島高グラウンドで両校の練習試合が行われ、7年ぶりに対戦。箕島は尾藤強監督(48)、星稜は山下智将部長(36)と、1979年夏の甲子園で戦った両監督のそれぞれの長男が戦況を見つめた。伝説の試合をスタンドで見ていた尾藤監督は「9歳でした。星稜のユニホームがすごく甲子園とマッチして強そうだった」と振り返る。山下智茂総監督については「オヤジの兄弟、身内のおじさんという感じで、いつ会っても温かい人。甲子園に出ないと」と切磋琢磨(せっさたくま)を重ねながら、大舞台での再会を誓っていた。

【プラスワン】出番の訪れなかった3年生。現在は若者の夢を後押しする日々

谷村誠一郎マネ

 史上最高の試合でベンチに入れなかった3年生が、3人いた。そのうちの1人に谷村誠一郎がいる。マネジャーだったのだが、当時の規定によりベンチ入りは認められず、ネット裏から観戦していた。

当時のアルバムで思い出を語る山下(左)と谷村

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 監督・山下の計らいで、試合前ノックを順番に打たせてもらえることになったが、箕島に敗れ、3試合目に進めなかったため唯一、その恩恵にもあずかることができなかったのが、谷村だった。

 ところが星稜は、この試合が評価されて国体出場校に選ばれる。宮崎・高鍋球場で「初めて、星稜のユニホームを着ることができたんです」と、谷村は張り切ってノックバットを振るった。ただ、それが甲子園でなかっただけに余計、思いが募りその後は石川県で高校教師となり、野球部監督も務めた。現在は同県生涯学習センター担当課長として、若者の夢の後押しに、多忙な日々を送っている。

(次回は4月17日掲載)

 

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