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【特選!レジェンド校】

1947、48年 夏連覇福嶋一雄からプロ93勝安田猛へ 小倉

2018年2月6日 紙面から

 高校野球熱の高い九州に初めて優勝旗をもたらした小倉(福岡)は、第29回大会(1947年)から夏2連覇。春も2度の準優勝など輝かしい歴史を誇る。スポーツ4紙合同企画「特選! レジェンド校」の第3回は、第100回の記念大会で福岡から代表校が初めて2校となる今夏へ向け、OBで古豪復活へ尽力する安田猛スーパーバイザー(70)らの思いを中心に描く。 (文中敬称略)

医師も驚く回復力

スーパーバイザーとして選手を指導する安田猛(右)=昨年8月31日、北九州市の小倉高で

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 第100回記念大会で、安田は後輩たちが甲子園のグラウンドに立つ姿を夢見ている。「自分も小倉で野球をやるのが憧れだったし、プロのころから母校を応援できればと思っていた」。プロ通算93勝の名左腕は語る。

 昨年1月に母校のコーチに就任。秋には監督に就任予定だったが、2カ月後にがんの一種の「腹膜播種(はしゅ)」が判明。コーチを辞任し、自宅のある東京で抗がん剤治療に専念。医師も驚くほどの回復を見せ、同9月に新設されたスーパーバイザーに就いた。

 東京と学校のある北九州市を往復し、母校を指導する時期は単身赴任となる。一度は「いつ死んでもいい」と覚悟した安田にとって、後輩を甲子園に導くことは大きな希望となった。

福嶋一雄への憧れ

(左)小倉の優勝旗。手前から1948年夏、47年夏。その奥は47年春、54年春の準優勝旗と小倉中の校旗 (右)小倉高の隣にある百周年記念明陵会館に飾られた福嶋の等身大パネル

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 そんな安田を周囲も応援する。OBで現監督の牧村浩二は「病気と闘いながら『野球人生の最後に母校を甲子園に出したい』と願う大先輩の思いを尊重したい」と話す。「僕は褒めて育てるタイプ」と話す安田の下には、孫のような年齢の後輩が集まる。

 小倉は19年夏に初出場で4強。エース福嶋一雄を擁した40年代中盤に甲子園で一時代を築き、安田ら北九州地区の少年が憧れる存在となった。47年春に準優勝し、同年夏に優勝。初めて優勝旗が関門海峡を渡った。翌48年は夏2連覇を遂げた。

 「甲子園の土」を持ち帰った第1号という説もある福嶋は右の技巧派で抜群の制球力を誇った。岐阜商(現県岐阜商)を6−3で破った47年夏の決勝の試合時間は1時間12分。これは今も大会の最短記録だ。48年夏は史上2人目の5試合連続完封を飾った。

 当時の強さの背景には、八幡製鉄(現新日鉄住金八幡)や門司鉄道局(現JR九州)が全国制覇するなど、戦前から社会人野球が盛んだった北九州の土地柄もあった。小倉も社会人野球を経験した外部指導者に洗練した野球を注入された。

内角を突く投球術

 当時について牧村は「投手中心の守りの野球で、攻撃もノーヒットで1点を取る野球だったと聞いています」と話す。長い年月を経て、今度はプロ野球でも活躍した安田が、母校に自分の経験を還元しようとしている。

 「(高校時代の)球速は135、6キロだったかな。当時から内角を突くのがうまかった」と話す安田は65年春に甲子園出場。準優勝した市和歌山商(現市和歌山)に初戦で1−2で敗れた。後に阪神で活躍した藤田平には「2安打されたかな。これが高校生かと思ったよ」と笑う。

 その年は8年ぶりの甲子園出場。安田も「出ただけで大偉業を達成したと思った」と振り返るが、当時の監督には「優勝を狙っていたんだぞ」と怒られたという。同年夏は甲子園初出場初優勝を飾った三池工に、福岡大会準決勝で敗れた。

「私立の壁」破れず

 安田ですら手が届かなかった夏切符。福岡県内で屈指の進学校でもある小倉は、有力選手を多く獲得する私立校の台頭などもあり、苦戦が続いている。2015年夏は福岡大会準決勝で九州国際大付に惜敗。「私立の壁」は破れなかった。

 夏は1956年、春は78年を最後に遠ざかっている大舞台。あの光景を後輩にも見せてやりたい、という思いを胸に、安田は母校のグラウンドに戻ってきた。「甲子園では本当に感激しちゃって。(巨人の)ONとの初対戦の次ぐらいに体が震えた」。伝統校復活へ向けた挑戦が、また始まる。 (相島聡司)

全国区の好投手輩出

小倉のエース河浦(左)と徳永主将のバッテリー

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 小倉は福嶋、安田以外にも全国区の好投手を輩出している。準優勝した1954年春から4季連続で甲子園に出場した畑隆幸だ。150キロを超えたといわれる左腕からの剛球を武器に、稲尾和久と同期で入団した西鉄でも通算56勝を挙げた。

 右腕ながらその再来と期待されるのが、最速147キロの快速球を誇る現エースの河浦圭佑(2年)だ。安田は「自分の高校時代より上」と評し、牧村は「本校では畑さん以来の速球派」と話す。現在は安田の投球術などを貪欲に吸収中。「内角を突くことだけでなく、シュートなどの変化球も教わりました」。バッテリーを組む主将の徳永直樹(同)も「内角の使い方を工夫してリードも成長できたと思う。安田さんに恩返ししたい」と誓っている。

【プラスワン】福岡県勢4度優勝の陰に「エース」あり

福嶋、三池工・上田卓三、西日本短大付・森尾和貴

 小倉の2度を含め、九州最多の夏4度の優勝を誇る福岡県勢。その優勝校には共通点がある。1947、48年の小倉は福嶋、65年の三池工は上田卓三、92年の西日本短大付は森尾和貴と1人の投手が甲子園の全試合を投げきったことだ。

 福嶋は48年に史上2人目の全試合完封。65年の上田は2年生の左腕エースとして奮闘し、石炭不況に沈む地元の大牟田市を熱狂させた。92年の森尾は北陸(福井)との準々決勝の9回に1失点しただけで、他の4試合を完封する離れ業を演じた。

 74年の金属バット導入や打撃マシンの登場などもあり、投高打低から打高投低の傾向が強まった高校野球。さらに故障防止の観点から、近年は複数の投手を起用するチームが増えている。夏の甲子園で全試合を1人で投げ抜いた優勝投手は、94年の佐賀商・峯を最後に出ていない。かつての「福岡のエース」たちのような記録は、ますます困難になりそうだ。

 ▼小倉 1908年に福岡県立小倉中学校として開校。野球部は10年創部。甲子園出場は春夏計21度で通算27勝(春12勝、夏15勝)は県最多。47、48年に夏連覇、47年春と54年春は準優勝。主な野球部OBは火野葦平(小説家)、楠城徹(元西武ヘッドコーチなど、現九州国際大付監督)ら。

 ▼安田猛(やすだ・たけし) 1947(昭和22)年4月25日生まれ、福岡県築上町(旧椎田町)出身の70歳。小倉高、早大を経て大昭和製紙では70年の都市対抗で優勝し、最優秀選手に当たる橋戸賞を受賞した。72年にドラフト6位でヤクルト入りして新人王と最優秀防御率を獲得。73年も最優秀防御率に輝いた。実働10年で通算成績は93勝80敗17セーブ、防御率3・26。「王キラー」としても知られた。

 ▼福嶋一雄(ふくしま・かずお) 1931(昭和6)年1月6日生まれ。北九州市(旧福岡県小倉市)出身の87歳。48年夏は史上2人目の全試合完封で夏2連覇するなど、甲子園で春夏通算17勝。早大でも活躍し、八幡製鉄(現新日鉄住金八幡)では54年の都市対抗優勝に貢献。2013年に野球殿堂入り。

【小倉と並ぶ「公立の雄」】喰田孝一「走って、1−0で勝つ野球」

(左)試合後、インタビューに答える東筑の喰田監督=1994年7月 (右)1953年夏に甲子園初出場した東筑。先頭は主将だった仰木彬

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 昨夏、21年ぶりに甲子園の土を踏んだのが、同じ県立の進学校で小倉のライバルでもある東筑だ。過去30年間で夏の甲子園に出場した福岡の公立校は1987年、96年にも出た東筑だけ。創立120周年の今年はセンバツ大会出場も決定。同校初の2季連続出場となった。

 私立が幅を利かせる福岡で「公立の雄」ともいえる東筑の甲子園初出場は53年夏。エースは仰木彬。プロでは西鉄で活躍し、オリックス監督としてはイチローらを世に出した。捕手は喰田(しょくた)孝一。60年代から90年代にかけて長く監督を務め、東筑野球の基礎を築いた。

 現監督の青野浩彦も喰田の教え子。「東筑は公立で体の大きい選手もいない。走れる捕手ならどんどん走り、ホームスチールなどでも相手を警戒させる。大きなヒットが出ないので、そうやって1−0で勝つ野球だった」と当時を振り返る。

 機動力野球を最大の武器とした喰田は監督として、甲子園に春1度、夏2度出場。青野が主将で甲子園に出場した78年夏は3回戦まで進んだ。栽弘義が率いる豊見城(沖縄)に1−4で敗れたものの、2回に同点の本盗を成功させたのは今も語り草だ。

 過去6度の夏の甲子園出場で、4度もエースの姓が石田だったという「石田伝説」も有名だ。小倉との定期戦は13勝13敗1分け。小倉のスーパーバイザーを務める安田は「今年は東筑に勝たないと甲子園に行けない」とライバル心を燃やしている。

(次回は2月27日掲載)

 

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