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【KOSHIEN新世紀】

受け継がれる思い 次の100年へ 1世紀ぶり聖地 実った樽募金

2015年12月29日 紙面から

OB奔走…すべて手製の大会運営 現・宇治山田高 山田中

 高校野球100年の節目を締めくくる『第1回全国中等学校優勝野球大会再現試合』が12月19、20日に甲子園球場で行われた。広島国泰寺(広島中)、宇治山田(三重四中、通称・山田中)OBの発案から5年。ついに出場10校のOB約600人が、甲子園で入場行進し、白球を追った。最終回となる今回は、手づくりプロジェクトに懸けた主催者の思いを伝える。 =文中敬称略

広島国泰寺が提唱

試合後お互いの健闘をたたえ合う山田中ナインと秋田中ナイン=19日、甲子園で(北村雅宏撮影)

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 100年前の夏に、豊中グラウンドで全国大会を戦ったのは10校。その「レジェンド10」のOBを甲子園に招こうという壮大な計画が持ち上がったのは、2010年だった。主催は高野連ではない。広島国泰寺OBの山本将司(50)が呼び掛け「第1回全国中等学校野球優勝大会再現プロジェクト2015大会実行委員会」を組織した。

 実行委員長の山本の志に共感し、奔走したのが、宇治山田野球部OB会長の田畑吉春(50)だ。残り8校はその後も甲子園に出場しているが、この両校は一度きり。夢よ再び…。この思いが出発点となった。まさしく悲願の“出場”に、当日は24歳から77歳まで56人もの元球児が参加し、100年前当時のデザインを復刻したユニホーム姿で入場行進した。

 100年前は初戦で秋田中に1−9で大敗。当時の学校史『校友』一八号にはこう記されている。「九対一にて散る(中略)されどかくまで秩序ありかくまで元気ありし秋田軍と対陣せし事の幸福なりしを憶ひ、尚来るべく年宇には技に学に一段の心境を示し得べき理想のチームを作りて捲土重来せんことこそ我らの希望なれ、吾等の覚悟なれ」。捲土(けんど)重来の絶好機だったが、3−10で返り討ちに…。

 大会実行副委員長でもある世古口哲哉監督(49)は「ミスが重なってしまって…。でも後輩たちには僕らの気持ちは伝わったと思います」とスタンドに頭を下げた。宇治山田は来春のセンバツ21世紀枠候補9校に選ばれている。春は初、実に101年ぶりの吉報を待つ現役部員34人も、OB会に招かれ、甲子園のスタンドで先輩の奮闘に声援を送った。

 「これだけ応援して下さる方がいて、学校のすごい歴史があって僕らがいるんだと感じました」。主将の荘司康宏(17)は100年の重みを実感したようだ。

観客2000人に

ソフトバンク・王貞治会長からのビデオメッセージを聞き入る球児たち=19日、甲子園で(北村雅宏撮影)

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 初日には早実OB・王貞治(現ソフトバンク会長)のビデオレター、2日目には荒木大輔、大矢明彦による始球式が行われるなど、話題性も十分のイベントになった。2日間の観客数も約2000人を数えた。ただ、実現に至る過程は想像以上に過酷だったようだ。

 山本は「私の母校(広島国泰寺)は原爆の爆心地にほど近かったため、資料が焼失し、歴史を知ることが難しかった」と話し「何度も諦めかけた」と本音をもらした。各校間の温度差も大きく、資金面での課題もあった。

 「弁当の手配、バスの誘導、駐車場の警備、報道対応などすべて手製。その他も経費面で削れるところはすべてやって各校負担分を極力抑えました」

 こう話した田畑はこの1年、各地の支部が行った同窓会に足を運び、イベントの趣旨を説明しながら協力金を募った。いわゆる“樽募金”だが、比較的地の利がある宇治山田が相当な労力を要したのだから、甲子園から遠い秋田、久留米などはさらに苦労したことだろう。

 10校がそろってこそのプロジェクト−。全ての関係者はこの思いで一丸となり、無事成功に導いた。100年前に豊中グラウンドで戦った球児の魂が、こうして甲子園に甦った。野球が人と人とのつながりや絆を深め、友情を育む。その先にあるのが甲子園。次の100年の歴史を紡ごうとも、野球と甲子園の役割は変わらないだろう。 (中村正直)

 ◆第1回大会 1915(大正4)年8月18日から23日まで、豊中グラウンドにて開催。地方大会には73校が出場した。決勝戦は延長13回、サヨナラ試合だった。今では考えられない豪華賞品があり、出場記念メダル以外にも優勝した京都二中の選手には銀製のメダル、腕時計、辞書、書籍券が、初戦に勝った5校の選手にも万年筆が贈られた。

 開幕前夜にはホテルで茶話会が催され、地方の中学生にはまだ珍しかったアイスコーヒーとサンドイッチが振る舞われたという。

「敗者にも栄誉を」 出場記念メダルに刻まれる理念 久留米商OBの親族が寄贈

春夏通算9度出場

(右)甲子園球場内であった贈呈式でメダルを掲げる久留米商高の江頭彰校長(右から2人目)(左)久留米商高に寄贈されたメダル

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 1915年の第1回大会を皮切りに春5度、夏4度の出場がある久留米商(福岡)にとって、過去最高の成績は62年夏の準優勝。当時の主将だった織田滋(71)も今回の「再現プロジェクト」に参加し、53年前の記憶をたどった。

 「取材の方に『君たちは47年ぶりの出場をどう思う?』と聞かれて、答えに困った記憶がありますね」。62年夏は第1回大会以来の出場。この間に春は3度出場したものの夏切符を再びつかむには長い時間が必要だった。

 第1回大会出場を今に伝える「出場記念メダル」が、プロジェクト初日の19日に甲子園球場内で同校へ寄贈された。第1回大会に出場した星野直蔵の親族が保管していたものだ。

現存メダルは2個

 星野は卒業後に就職で大阪に移り、89年に90歳で死去。三男の豪男(80)=大阪府高槻市在住=は「父は柔道や剣道もやっており、スポーツ万能。このメダルが自慢でいつも磨いていました」と話す。それほど大切な記念品だった。

 メダルは100個ほどしか製作されておらず、高校野球史を語る上でも貴重な遺物だ。同じメダルを展示する「甲子園歴史館」によると現存を確認できるのは、今回のメダルと合わせて2個だけだという。

 直径約3・5センチのメダルには、表にバットを持った選手とともに「VICTISHONOS」と記されている。ラテン語で「敗者にも栄誉を」という意味だといい、まさに100年前の理念を伝えるものだ。 (相島聡司)

【へぇ〜】優勝するに決まっているからと名門・横浜商は出場見送り

第1回中学野球

 第1回大会出場校を「レジェンド10」と呼ぶ。しかし歴史をひもとけば、実は「レジェンド11」になっていた可能性があった。

 その11校目は横浜商なのだが、なぜ幻となったのか。そもそも大会開催の社告が大阪朝日新聞に掲載されたのは7月1日。各地区は大急ぎで予選を開催したが、実は関東では開催されなかった。東京代表の早実は、何と3月に行われた大会を制したという理由で本大会に出場している。

 関東予選がなかった理由は諸説ある。この4年前に、お膝元の東京朝日新聞が「野球害毒論」なるネガティブキャンペーンを展開したから。多数の参加が見込まれ、間に合わなかったから…。

 ところが、横浜商にも出場を打診する声があったというのだ。国内初の国際試合は1896年の横浜在住の外国人チームと一高(現東大など)戦だが、この時に一高を応援した縁で横浜商に野球部が誕生。一高野球部の青井鉞男(あおい・よきお)が創設に関わったとされる名門だけに、それもうなずける。

 横浜商は一高、早稲田、慶応など大学チームを相手に腕を磨いていた。だからであろうか、大会参加への打診を拒否。松山商初代野球部長の鞍懸(くらかけ)琢磨の著書『ノックバットは語る』によると「技量に於て遥かに劣つて居る中等学校の野球大会に出場すれば優勝することは勿論であるから」がその理由だ。あるいは第1回大会の歴史が書き換えられていたかもしれない。

 

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