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【KOSHIEN新世紀】

非情と温情 史上唯一「サヨナラボーク」の真相

2015年5月19日 紙面から

豊田大谷−宇部商 延長15回裏豊田大谷無死満塁、林球審(左から2人目)にボークを宣告された宇部商・藤田(1)。打者・持田、捕手・上本=1998年8月16日、甲子園球場で

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98年夏・2回戦 豊田大谷−宇部商戦

 100年目を迎える甲子園でも、たった1度の幕切れがある。1998(平成10)年夏の第80回大会2回戦。豊田大谷(東愛知)と宇部商(山口)の試合は延長15回、宇部商のエース・藤田修平のサヨナラボークで決着がついた。球審を務めた林清一(59)にあの判定と「ルールの番人」の秘話を語ってもらった。 (文中敬称略)

気温38度、観衆4万9千人

 試合開始から3時間52分。炎天下の激闘に幕を引いたのは、選手ではなく球審を務めた林のジャッジだった。その瞬間、ぼう然と立ちつくしていた藤田だが、ベンチ前に整列するころには号泣していた。ボーク、満塁、しかもサヨナラ。歴史に刻まれる判定は、無情と言われようとも「見たまんまで判断する」。当時43歳。それまでの審判員のキャリアで自らに言い聞かせてきたことを、このプレーでも適用しただけだった。

宇部商・藤田のボークによる豊田大谷のサヨナラ勝ちを報じる1998年8月17日付本紙

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 大会11日目の第2試合。グラウンドは38度あった。直後に横浜・松坂大輔(現ソフトバンク)と鹿児島実・杉内俊哉(現巨人)の激突が控えており、甲子園はすでに4万9000人を飲み込んでいた。

 5回終了時、水を飲んだ。9回に豊田大谷が追いつき、延長へ突入。「水分、差し入れを期待したんですが、来なくてねえ」と今だから笑えるが、その時は笑えなかった。塁審もバテて、打球を追い切れなくなっていた。しかし「早く決着をつけたい、と思ったら、ジャッジが雑になる」と、必死の判定を続けた。

 審判も酷暑と戦っていたのだから、選手はなおさらだ。172センチ、60キロと細身の藤田はついに力尽きようとしていた。15回裏、無死満塁。この場面で藤田は林の想定にない動きをした。

 「審判として一番いけないのはビックリすること。そうならないように、あらゆることを想定するのですがあの時、ボークだけは考えてもなかった」と振り返る。

 「ふらふらで、汗もすごい勢いで流れていた」という林の眼前で、プレート板に足をかけたまま、藤田はセットに入ろうとした手を「ストン、と落としたんです」。二塁走者から打者への球種伝達を警戒し、複数のサインを使い分けていた。暑さで意識がもうろうとし、混乱したのだろう。

 林はすぐに投手と捕手の間に割って入り、「ボーク」を宣告。三塁走者に2度、生還するよう指示をした。「スタンドが一瞬静まりかえって、そこからざわざわする声に変わりました」とその瞬間を振り返った。

豊田大谷−宇部商延長15回裏 史上唯一のサヨナラボーク

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襲いかかる「不安」との闘い

 もし藤田が足を外していれば、ボークではない。「だんだん不安になりました。(ミスなら)やっちゃった、審判人生、終わりだな」とも思った。ほどなくテレビを見た審判仲間や関係者から「間違いなくボークだった」の確認が入った。

 黒子に徹するはずの審判が、最後の最後で主役になった。試合後の会見では報道陣に取り囲まれ、詰問された。「なんであんなところでボークを取るんだ」、「注意で終わらせられないのか」。この場を納めたのは、大会本部でプレーを見ていた幹事審判の三宅享次だった。「審判は、ルールの番人です。以上!」と制した。

「勝利球」は敗戦投手の元へ

 だが、林は血の通った番人だった。甲子園には「ウイニングボールは目立たないように、勝利校の主将に渡す」という暗黙のルールがある。が、藤田が返そうとしたボールを、林は受け取らなかった。「持っておきなさい。そして来年、また甲子園に来なさい」。藤田が2年生であることを知っていたからだ。勝った豊田大谷にはポケットから出した別の試合球を手渡した。

 つるべ打ちにあう投手がいる。投球数は増え、何度も三塁、本塁のカバーリングに走り肩で息をしている。本塁付近にいれば「頑張れ」とそっと声をかける。

 大敗の終盤に背番号「18」の選手が代打で出てくる。明らかに足が震えていれば、こっそり「深呼吸しなさい」とささやいて、汚れてもいない本塁ベースを掃き、時間を取ってやる。

 「甲子園は、誰にとっても一世一代」。少しでもいいプレーをさせてやりたい。林は「そういう時のために、通常は無駄な時間を省いて“貯金”をしておくんです」と笑って教えてくれた。

 15年後の2013年夏。100年に1度のジャッジを下した林と、211球目を投げられなかった藤田が、高校野球イベントで再会を果たした。32歳になった藤田は、家庭を持ち、職場での野球を楽しんでくれていた。「元気でやっているところを林さんに見せたくて」。山口からかけつけた藤田の姿と言葉に、林は「感無量」と漏らし、涙を流したという。 (西下純)

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延長18回 箕島−星稜 永野球審も見せた気遣い

敗戦の星稜エースに試合球そっと手渡す

 往年の名審判に永野元玄がいる。1979(昭和54)年夏の第61回大会で、伝説の箕島−星稜戦の球審を務めた。今なお語り継がれる3時間50分の激闘は、両チーム合わせて465球をジャッジした永野にとっても激闘だった=写真。

 試合後のあいさつが終わり、負けた星稜のエース・堅田外司昭に、永野はこう声をかけた。

 「球場をもう一度、見ておきなさい」。そして、ボールをそっと手渡した。「ゲームセットのボールでは、負けたときのことを思い出してつらいだろう」。試合中に使った使用球だった。

 永野は53年夏の第35回大会に、土佐高の捕手として出場。決勝戦の9回2死、2ストライクまで勝っていたが、永野がファウルチップを捕れず、追いつかれて延長戦で敗れた。ルールの番人となってからも、敗者の気持ちは誰よりも理解していたのだ。

 永野からボールをもらった堅田は、現在は審判員として活躍している。「見ておきなさい」と言われた甲子園に、毎年帰ってきている。 (渋谷真)

 ◆公認野球規則(抜粋) 8・05 塁に走者がいるときは、次の場合ボークとなる。 (a)投手板に触れている投手が、投球に関連する動作を起こしながら、投球を中止した場合。

 ▼林清一(はやし・せいいち) 1955(昭和30)年5月25日生まれ、東京都調布市出身の59歳。67年西東京リトルリーグの一員として世界選手権で優勝。早実、早大、大昭和製紙で活躍後の86年、東京六大学連盟審判員に。甲子園、都市対抗だけでなく、2004年のアテネ五輪では日本人で唯一の審判員を務めた。12年に引退。日本リトルリーグ創設者でことし野球殿堂入りした和男は実父。

【へぇ〜】審判員事情

「次」も約束されず完全ボランティア…聖地が憧れなのは球児だけじゃない

仙台育英−神村学園 二塁塁審を務めるスジーワ・ウィジャヤナーヤカ=3月23日、甲子園球場で

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 今年のセンバツで、スリランカ出身のスジーワ・ウィジャヤナーヤカが審判員を務め話題となった。

 球児のみならず、アマチュア野球の審判員にとっても甲子園は憧れの地だが、毎大会ごとの委嘱、という形を取る。

 主に(1)東京六大学など高いレベルの組織に属する審判員、(2)近畿2府4県の“レギュラー組”および全国大会審判員と認められている者、(3)3年に1度のローテーションで、各地の高野連会長らの推薦による派遣審判員という、3つのグループが混在する。1大会あたり40〜50人という大所帯だ。

 大会ごとの委嘱なので、次回は約束されない。「皆さん、危機感をもってジャッジしています」とは日本高野連事務局長の竹中雅彦の説明だ。

 ちなみに大会期間の洗濯代など必要経費は支給されるが、完全なボランティア、無報酬で務めている。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行っています。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。 はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。メール(nsupo@chunichi.co.jp)でも受け付けます。ご協力よろしくお願いします。

(次回は6月9日掲載)

 

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