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【KOSHIEN新世紀】

全国制覇計6度 四国の名将物語

2015年4月28日 紙面から

甲子園で2人合わせて70もの勝ち星を生んだ明徳義塾・馬淵史郎監督(左)と済美・上甲正典前監督(右)

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攻めの上甲 守りの馬淵

 昨年9月に胆管がんで死去した済美・上甲正典前監督と、明徳義塾・馬淵史郎監督(59)。池田を率いた蔦文也元監督(故人)と入れ替わるように台頭した2人は、固い友情で結ばれた同郷の親友であり、ライバルだった。「攻めの上甲」が2度、「守りの馬淵」が1度、そして「攻めダルマ」と呼ばれた蔦が3度。計6度の全国制覇を成し遂げた四国の名将物語を振り返る。 (文中敬称略)

バスで行き来し練習試合は200戦

 甲子園を目指して155人の部員が汗を流す明徳義塾グラウンド。選手たちの動きを見守りながら、馬淵が寂しげな表情でつぶやいた。

 「上甲さんがおらんなって、張り合いがないんよ…」

 昨年9月2日に急逝した上甲。8歳離れた2人は「兄弟以上の仲」という親友であり、ライバルだった。上甲は愛媛県三間町(現宇和島市)、馬淵は八幡浜市の離島・大島の出身だ。「同じ南予(愛媛南部)の人間。キャラが似ていて、ウマが合った」という。

 上甲が宇和島東を率いて初出場初優勝を果たしたのが、1988(昭和63)年の第60回センバツだ。その2年後の90年に馬淵が明徳義塾の監督に就任すると、2人はすぐに意気投合した。

 バスで互いのグラウンドを行き来し、練習試合で力試し。その関係は2001年に上甲が済美に移ってからも続いた。「1年に10試合前後はやった。あれから20年以上、トータル200試合はやったかなあ」。馬淵は懐かしそうに振り返る。

 一緒に食事をしながら野球談義に花を咲かせることも多かった。待ち合わせ場所はいつも「サウナ」。上甲は普段はアルコールを口にしなかったが、「オレと一緒のときは生ビール1杯くらいは飲んだ」という。

 92年の夏、馬淵が星稜・松井秀喜(元ヤンキース)への5打席連続敬遠でバッシングを浴びたときも、「上甲さんは全力で励ましてくれた」。本田宗一郎の著書をプレゼントされ、「世界のホンダも最初は町工場やったんでえ。ワシが甲子園で優勝できたんやけん、馬淵くんにもできんはずがない」と背中を押された。

 何でも話し、理解し合った2人の指導者だが、野球のスタイルは正反対だったと馬淵は言う。

 「上甲さんは攻めの野球。オレは守りの野球よ」

 宇和島東時代、上甲は堅守を誇った県内の名門・松山商を破るために、打撃重視のスタイルを取った。当時はまだ一般的ではなかったウエートレーニングを積極的に取り入れ、パワフルな打線をつくった。細い鉄の棒でパチンコ玉を打たせるなど、既成概念にとらわれないユニークな練習法でも有名だった。

ユニーク練習と伝統的基本練習

 馬淵は逆に、松山商を手本とした。69年夏に三沢(青森)との延長18回引き分け再試合を制して、同校を優勝に導いた一色俊作元監督(故人)に憧れていた。守備を鍛え、小技を駆使する「確率の高い野球」。上甲から“ユニーク練習”を勧められても「ウチは基本練習しかせん!」と突っぱね、伝統的な手法で選手たちに基礎を教え込んだ。

 影響し合っても、根本は崩さない。そんな2人の信念は甲子園で花開いた。明徳義塾が02(平成14)年夏の第84回で念願の全国制覇を果たすと、済美は創部3年目の04(平成16)年に第76回センバツを制覇。上甲にとって2度目の初出場初優勝だった。

 その04年センバツの準決勝で、済美と明徳義塾は激突した。2人にとって最初で最後となった甲子園での直接対決だ。その前夜も、両監督はいつものように時間を共有した。

 「夜9時ごろに上甲さんから電話があってね。『サウナ行って、飯食おうや』って。互いに探り合いながら焼き肉を食べました」。翌日の試合は済美が7−6で勝利。同点の8回、鍛え抜いたはずの明徳義塾の守りにまさかのミスが出た。

 「上甲さんの執念が上やった。あの上甲スマイルが憎ったらしくて…。もう1回、甲子園でやりたかった」。

 昨年8月26日。病室で約1時間半、「2人で昔話に花を咲かせた」のが最後の別れとなった。上甲は甲子園で歴代22位タイの通算25勝(宇和島東10勝、済美15勝)。馬淵は現在、歴代5位の45勝を挙げている。およそ四半世紀、200試合を重ねた切磋琢磨の日々が、合わせて70もの勝ち星を生んだ。 (浜村博文)

攻めダルマと呼ばれた池田・蔦文也元監督は3度の全国制覇を果たす

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攻めダルマの蔦 教え子たちがDNA継承、毎年「追悼親善試合」

 山びこ打線で3度の全国制覇を果たすなど、甲子園で歴代7位タイの37勝。80年代を中心に大暴れした池田を率いたのは、蔦文也(2001年に死去)だ。今では教え子が、徳島県内の高校で指導者となっている。毎年、蔦の命日である4月28日を前に、チームを率いて集まり、「蔦先生追悼親善試合」を開催している。

 14回目の今年は岡田康志(54)の池田、矢川雅英(48)の穴吹、和田哲幸(47)の板野、3月まで住吉圭吾(42)が率いた脇町の4校が集結。25、26日に三好市の吉野川運動公園野球場で総当たりの試合を行った。

 昨春センバツで27年ぶりに甲子園に帰ってきた岡田は「蔦先生の指導を思い出し、刺激し合う」と親善試合の意義を語る。「空の上の蔦先生にチームを見ていただく」とは和田。矢川は「みんな選手の育て方が似ているので、ほっとします」と話した。

 対戦後には蔦と2月に他界した妻・キミ子が眠る墓に参り、手を合わせた。「蔦先生の野球を継承していきたい」と岡田。「攻めダルマ」のDNAは、池田のみならず県内全域に伝えられている。

 ▼上甲正典(じょうこう・まさのり) 1947(昭和22)年6月24日、愛媛県三間町(現宇和島市)生まれ。宇和島東高、龍谷大では三塁手。卒業後はサラリーマン生活の後、故郷で薬店を開業。82年から宇和島東の監督を務め、87年夏に甲子園初出場。翌88年センバツで初出場初優勝。01年秋から済美を率い、04年センバツで優勝。甲子園には春夏合わせ17度出場。14年9月、胆管がんのため67歳で死去。教え子には平井正史(オリックスコーチ)、福井優也(広島)、安楽智大(楽天)らがいる。

 ▼馬淵史郎(まぶち・しろう) 1955(昭和30)年11月28日生まれ。愛媛県八幡浜市出身の59歳。三瓶高、拓大では内野手。卒業後は社会人の阿部企業でコーチ、監督。86年に監督として日本選手権準優勝。翌年、明徳のコーチとなり、90年監督に就任。02年の夏に甲子園初優勝。甲子園は春夏通じ26回出場。主な教え子に森岡良介(ヤクルト)、伊藤光(オリックス)ら。

 ▼蔦文也(つた・ふみや) 1923(大正12)年8月28日生まれ。徳島市出身。徳島商、同志社大、日鉄広畑、全徳島を経て50年に投手として東急(現日本ハム)に入団するが1年で退団。51年に池田高教諭となり、52年に野球部監督に就任。20年目の71年夏に甲子園初出場で準優勝。以来14回出場し優勝3回、準優勝2回。水野雄仁(巨人)、畠山準(横浜)らをプロに送り出した。92年に引退。2001年4月、肺ガンのため77歳で死去。

【へぇ〜!】最多出場なんと8度 和歌山中・小川正太郎

 甲子園には個人では何度出場できるか? もちろん5度だ。学校が5季連続で出場するのもかなり難しいが、そんな強豪校で1年夏からメンバー入りするのも至難の業。過去には大ちゃんフィーバーの荒木大輔(早稲田実)やKKコンビの桑田真澄、清原和博(PL学園)らがいる。

 だが、これを超えるレジェンド球児がいた。和歌山中(現桐蔭)の小川正太郎は実に8度。なぜこんなことが可能かというと、旧制中学は5年制だった。つまり、当時は最多で「9度」まで出場できたわけだ。

 快速球とドロップを駆使し、4年生だった1927(昭和2)年春の第4回大会で全国制覇した左投手だ。ところが、皮肉なことにこの優勝が「9度」を逃す理由になっている。この年の春の優勝校には、米国遠征のご褒美があった。小川を含むレギュラーは、渡米中で「夏」がなかったのだ。それでも和歌山中は居残りの控え選手だけで甲子園に出場しているのも驚きだ。

 なお、この年の夏を制したのは高松商。「これではどちらが強いのかわからない」との声に押され、史上唯一の「日本一決定戦」が行われた。結果は米国遠征の疲労が残っていたのか、小川が精彩を欠き4−7で和歌山中は敗れている。

 翌年の春夏も甲子園に出た小川は、早大を経て新聞記者に。没後の81年に野球殿堂入りしている。

 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行います。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して秋をめどに記事化する予定です。はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。ご協力よろしくお願いします。

(次回は5月12日掲載)

 

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