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成政 さらさら越え本当? 凍傷対策は 食事は…

厚い雪を崩して踏み固める「ラッセル」で進む上田幸雄さんの同行者=2014年12月、富山県の北アルプス八ツ峰で(上田さん提供)

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 戦国時代の富山城主・佐々成政がおよそ四百三十年前、厳冬に富山県内の北アルプス北部・ザラ峠を越えた伝承「さらさら越え」。事実なら日本登山史上に残る快挙とされる一方、踏破は困難との見方も根強い。冬季に北アを横断した登山者らの見解を基に検証を試みた。(林啓太)

登山家検証「厳冬期なら現実離れ」

上田幸雄さん

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 「厳冬期のザラ峠越えは現実離れしている」。こう語るのは富山市の登山歴三十三年の上田幸雄さん(51)。二〇一四年十二月、十一日間で長野県大町市から剣岳(二、九九九メートル)などを経て富山県上市町伊折へ至る約三十五キロを仲間三人と一緒に踏破した。さらさら越えより五〜十キロほど北だ。

 荷物は三十キロ前後。毎日のように雪が降り、積雪は日増しに増えた。黒部別山の北峰(二、二八四メートル)から剣岳・八ツ峰に登る行程が厳しかった。「頭を越えるぐらいの高さの雪を交代して崩して進んだ」

 悪天候で視界はない。一時間で進める距離は百数十メートルくらい。剣岳頂上に着いたのは十日目の日没直前だった。「雪から体を守ってくれる衣類や携帯こんろ、テントなど近代的な装備が必要だ」と強調する。

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 大正時代の一九二三年二月、「さらさら越え」の逆ルートに挑んだ一団があった。名古屋市出身の登山家伊藤孝一(一八九二〜一九五四年)ら約二十人。北アを隔てて約五十キロ先の立山町の芦峅寺(あしくらじ)を目指したが、寒さや吹雪のため八日後に退却。成功したのは、周到に準備して再挑戦した春先の同年三月だった。

 「さらさら越え」には、北ア北部のザラ峠から約四十キロ南の南部の旧中尾峠や安房峠を越えたとの異説が浮上している。

 登山歴約二十五年の園比呂志さん(65)=埼玉県小川町=は三年前の二月、旧中尾峠近くを踏破。好天下、長野側松本市の中の湯温泉から焼岳(二、四五五メートル)を経て岐阜県高山市の奥飛騨温泉郷中尾までの約九キロを仲間と山スキーで進み、八時間余りで着いた。

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 雪は比較的固く、氷点下だが、寒さもさほどでない。成政の時代に徒歩ならどうか。「雪質によるのではないか。かんじきを履き、雪が固く安定していれば一日で歩けるかも」

 昨年三月には「さらさら越え」の道筋を長野側から富山側へ山スキーで二泊三日で踏破したが、濃霧や暴風、滑落や経路誤りの末だった。「圧倒的に焼岳越えの方が楽。傾斜は緩く、雪崩の危険もあまり感じなかった。厳冬期なら焼岳越えを選ぶ」と言い切った。

 長野県山岳総合センター(大町市)の今滝郁夫所長(61)は「南部は晴れ日が多い」と話す。稜線(りょうせん)一帯の年末年始の積雪は北部と大差ないが、南部はザラ峠越えに近い立山黒部アルペンルートの室堂にある「雪の大谷」のように、春になっても平均一六・五メートル積もる場所はない。

 今滝所長は「北アを戦国時代に越えるのなら南部が現実的」と指摘し、付け加えた。「手足を凍傷からどう守ったのか。雪や汗でぬれた衣類はどう乾かしたのか。雪洞に泊まったとして、調理などの火は中でおこせたのか。謎は残る」

 さらさら越え 佐々成政が天正年間の1585年1月ごろ、浜松城主の徳川家康に面会、羽柴秀吉への抗戦を呼び掛けた。往路、北ア北部のザラ峠を越えて長野県大町市側へ着いたとされる。近年、協力者が岐阜県飛騨地域周辺にいたことをうかがわせる新史料から、北ア南部の長野県松本市の旧中尾峠や安房峠を越えた可能性が指摘されている。

 

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