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特報とやま

立山信仰 女性に険しく 観光地 かつて「禁制」

大正時代、女学校の生徒が登山した様子を報じる記事(左)と昭和になって女性の登山が根付いてきたことを紹介する記事。ともに富山日報のコピー

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廃止後も差別の歴史

 大相撲の巡業中、救命活動をしようと土俵に駆け上がった女性が下りるよう求められた問題。女人禁制の伝統にこだわる一方、しきたりを廃して発展した文化は数多い。富山県では立山がかつて女性が立ち入れない場所だったが、今では男女を問わず年間百万人近くが訪れる観光名所になった。女人禁制はなぜ始まり、どう解かれたのか。富山発で考えた。(向川原悠吾)

大勢の女性客らで混み合う「立山黒部アルペンルート」の室堂ターミナル=16日、富山県立山町で(山本真士撮影)

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 女性が山に登ることに批判や差別があった明治六(一八七三)年、一人の女性が道を切り開いた。深見チエさん。記録には残っていないが、富山県内では初めて立山に登頂したとされる。その話は深見家でも代々語り継がれた。現在の当主で立山町の自営業、成吾さん(44)が思いをはせる。

 「自分の考えを貫く人だったと聞いている。登山中や登山後は批判があったらしいが、女性でも山頂からの景色を見たい一心だったんだろう。女性でも登れるということを証明できて本人はうれしかったのでは」

 その後、女性の登山者が増え、チエさんは標高千三百メートルほどにある立山温泉のおかみを務めたという。

 「神が宿る山」と古くからあがめられてきた立山連峰。立山博物館(同町)によると、立山信仰が生まれて平安時代に信者が増えると、女性の登山は許されなくなっていった。

 ただ、江戸時代末期でも立山温泉にはおかみがいた。これに対して、立山参詣に向かう人の宿場町だった麓の集落が、温泉宿に客を奪われる不安と信仰が汚されることを理由に反発。立山を管理し、山道の活性化策を進めていた加賀藩が集落と交渉し、金を納めることで決着したとされる。

 女人禁制が解かれたのは明治五(一八七二)年。近代化を進める政府が、外国から女性蔑視と批判されたことや、宗教的な観念が薄れたことを理由に全国の山で女性が入れるよう通知した。

 しかし、差別はしばらくは解消されなかった。立山のカルデラにあった立山温泉は洪水が多く、宿が水害に遭うと、住民は信仰を破ったことが響いたと冷ややかな目で見た。大正八(一九一九)年には富山女子師範学校の生徒が登山をした際、落雷に見舞われると、富山日報(北日本新聞の前身)は「山神の怒に触れた女学生の登山隊」と報じた。昭和二(一九二七)年の記事になると、女性の登山者が根付いたことを紹介している。

 同博物館の加藤基樹学芸員は「立山の女人禁制はとてもあいまいな概念だった。だから根拠のない差別的な内容だった」と話す。

 差別のなくなった現代は大勢の観光客でにぎわう。十五日に全線開通した「立山黒部アルペンルート」は女性客であふれている。

相撲界も根拠あいまい

 相撲の歴史は千五百年以上とされるが、必ずしも女人禁制が続いていたわけではなく、あいまいだった。

 北海道教育大の吉崎祥司名誉教授(社会学)によると、「相撲」という言葉が初めて出たとされる日本書紀では、取組は女同士によるものだった。室町時代の書記「義残後覚(ぎざんこうかく)」でも「女相撲」の様子が書かれている。

 明治五年に不平等条約の改正交渉で、女人禁制は遅れた文化とみなされた。交渉の頓挫を避けようと、政府は上半身裸の女相撲を禁止した。

 一方、「男相撲」は江戸時代には既に女性の入場が千秋楽以外は禁止されていた。ただ、場内で男性同士のけんかが相次いだため、女性の安全確保が目的だったといわれる。

 女子部員が活躍したこともある富山商業高校相撲部の上田龍弘顧問は「みんなが楽しむスポーツにするには女人禁制は世情にそぐわない。こうしたことが起こるたびに残念な気分になる」と大相撲の女人禁制に疑問を投げかける。

 

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