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成政「さらさら越え」根拠古文書 県立山博物館 本紙に初公開史料

衆徒らの道案内

県立山博物館が初公開した「当山姥堂中宮寺出世祭事」=同博物館提供(個人蔵)

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 戦国時代の富山城主・佐々成政が天正年間の一五八五年一月ごろ、厳冬の北アルプスを越えたとの伝承「さらさら越え」。史実とみる論者は冬山を熟知した越中立山の宗教者らが先導したとしているが、その根拠である古文書の写しに間違いがあり、成政の北ア越えとは関わりがない可能性が県立山博物館(立山町)が本紙に初公開した史料から浮上した。伝承の真否を巡る議論に一石を投じそうだ。(林啓太)

写しに間違いか

細木ひとみ氏

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 宗教者らは立山町の芦峅寺や岩峅寺に居住。「衆徒」と呼ばれ、山岳修行の傍ら宿坊を営んでいた。

 衆徒らが道案内をして成政を助けたとされてきた根拠の古文書は、芦峅寺の宿坊「日光坊」が一八〇二(享和二)年に記したとされる「立山姥堂中宮寺出世祭事」。十五人の衆徒が「佐佐奥州守殿(さっさむつのかみどの)、当峯口御立之時(とうみねぐちおたちのとき)」に布施をもらったとの記述がある。原本は所在不明で、出所不明のペン書きによる写しだ。

 昨年七月、立山博物館の細木ひとみ学芸員が、題がペン書きのものとほぼ同じ墨書の写しを、日光坊を運営した「座主」の子孫から入手した。文言がペン書きと大半が一致したが、ペン書きでは「御立之時」とある部分が「取立之時(とりたてのとき)」となっていた。細木学芸員によると、「取立之時」は「成政が衆徒らをひいきにした時」という意味になる。

 「墨書の書体は、江戸後期の日光坊関連の別の古文書と似ている。しかも出所は座主の子孫。原本の複写である可能性は高い。もしそうなら、衆徒らとさらさら越えの関わりがあったとは言えない」と指摘する。

 ただ、「御」と「取」の崩し字は似ており「御の字が虫食いなどのため複写では取の字に見えている可能性も否めない」と話し、登山史上の快挙とされる成政の北ア越えに関わるかどうか慎重に判断する必要を指摘した。

 さらさら越えは、成政が主君・織田信長の死後、浜松(静岡県)の徳川家康に羽柴秀吉への抗戦を呼び掛けるため、往路に北ア・ザラ峠(立山町)を越えて信州を経由したとする伝承。秀吉方の敵地を迂回(うかい)する狙いがあったとされる。

史実説成り立たず

 著書「さらさら越え」で成政の北ア越えに疑問を示した小林茂喜・大町市文化財指導員の話 墨書の複写は、やはり「御立」ではなく「取立」と読める。日光坊の史料を根拠として北ア越えの伝承を史実とする説は成り立たない。伝承が広まった背景の検証を、さらに求めていきたい。

 

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