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牧之原台地開拓150年 丸尾文六の功績に光を

◆茶業振興の心「いまこそ」

かつての丸尾文六の茶園で経営に取り組む増田剛巳さん=御前崎市上朝比奈で

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 お茶どころ静岡を支える一大製茶地帯・牧之原台地は、来年で開拓百五十年を迎える。かつての不毛の地を切り開いたのは、江戸から明治への時代の転換期に職を失った幕臣と川越人足の「リストラ組」だった。川越人足を率いたのは御前崎市出身の地主丸尾文六(一八三二〜九六年)=写真(御前崎市教育委員会提供)。幕臣の開墾ほど知られていないが独自の才覚で多角的に事業を展開した。お茶の国内市場が冷え込み、業界が低迷する近年、研究者らは「いまこそ文六の開拓精神に光を」と声を上げる。

 川越人足は、大井川の渡船や架橋が禁じられていた江戸時代、人々を担ぐなどして川を渡した労働者。島田市博物館によると、幕末には両岸の島田宿と金谷宿に合わせて千三百人がいたという。一八七〇(明治三)年になって渡船が許可されると、人足は一斉に失業を余儀なくされた。救済策として浮上したのが、牧之原台地の開拓だった。

 有力地主だった文六は、郡役所からの依頼を受けて人足の世話人となり、台地南部の開拓に着手した。雑木の生い茂る原野で、人足たちは木々を切り倒し、土地を掘り起こして整地し、苗を植えて道をつくった。ゼロからの茶園づくりは困難を極め、入植者は百戸から三十三戸まで減ったとされる。そんな中、文六は、現在の価値で数億円ともいわれる私財を持ち出し、十数年かけて人足が自立できるように導いた。

「丸尾文六はもっと注目されていい」と話す藤田雄一さん=御前崎市池新田の丸尾記念館で

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 文六に詳しい掛川市の元高校教員高木敬雄(のりお)さん(68)は「自分の利益だけでなく地域全体の振興に尽くし、それを成功させるだけの現実的な計画性も持ち合わせていた」と話す。文六の事業は開拓に限らなかった。茶は当時、生糸と並ぶ輸出商品。貿易は外国商人が支配的だったが、文六は米国へ直接輸出する会社を設立して切り込んだ。各地の製茶技術を吸収して質の向上にも努め、品評会で一等賞を獲得して牧之原の茶を全国に知らしめた。私塾を開いたり、道路や港を整備をしたりと活動は多岐にわたった。県議や県議長、衆院議員も務めた。

 ただ、文六の功績は、幕臣ほどのドラマ性が伝わっていないためか、時代の経過とともに歴史の片隅へ追いやられ、地元の御前崎市でも知る人は少ない。文六の弟の建物を保存する「丸尾記念館」(同市池新田)管理人の藤田雄一さん(62)は「文六はもっと注目されていい。何か活動していきたい」と話す。

 文六が初期に開拓した茶園を引き継いで経営する「やまま満寿多(ますだ)園」(同市上朝比奈)社長の増田剛巳(つよみ)さん(64)は、文六とのゆかりに誇りを感じている。自身は、まだ茶の国内市場が当たり前だった一九九一年、輸出に乗りだし、いまでは生産した七割が欧米やアジアなどの輸出向けだ。国内消費が冷え込む中、世界へ目を向ける姿勢を文六と重ね「偉大な先駆者にならい、牧之原の茶業をこれからもずっと継続していきたい」と身を引き締める。

 静岡大名誉教授の山本義彦さん(73)=日本経済史=は文六について、「上からの」国策としての近代化・工業化ではなく、地域の「自生的な」産業発展を成し遂げたと指摘する。「利他の精神で静岡独自の産業革命ともいえる道を切り開いた、注目すべき地域の逸材」と高く評価している。

(古池康司)

<牧之原台地> 県中西部に広がる台地。1869(明治2)年に幕臣たちが、71年には川越人足が入植し、切り開かれていった。茶園面積は5000ヘクタール以上ともいわれ、延々と茶畑が広がる日本最大規模の製茶地帯。島田市、牧之原市、掛川市、菊川市、御前崎市にまたがる。

 

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