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第1次上田合戦 「家康と連携」新解釈

◆富山の学芸員発表

萩原大輔主任学芸員

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 浜松城主だった徳川家康が信州上田城主の真田昌幸と戦った「第一次上田合戦」は、富山城主・佐々成政(さっさなりまさ)への軍事支援だった−。富山市郷土博物館主任学芸員の萩原大輔さん(35)が、家康と成政は当時連携していなかったという通説を覆す新しい解釈を十一日、愛知県安城市の同市歴史博物館で開かれたシンポジウムで発表した。成政は厳冬の北アルプスを越えて家康に連携を求めたが、拒まれて滅亡に追いやられたという悲劇のイメージに一石を投じる。

◆成政のため真田攻めた?

 成政は一五八五(天正十三)年一月ごろ、浜松を訪問。往路で敵地を迂回(うかい)するため富山県の北ア・ザラ峠(二、三四八メートル)を越え信州に着いたとされ、「さらさら越え」と呼ばれる伝承になった。

佐々成政が1585年4月に村上義長に宛てた書状。年号を欠くが、旧暦の天正13年3月19日付とされる=「村上家系図書翰等控」より(金沢市立玉川図書館提供)

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 通説では、成政は家康に対し、大坂城主の羽柴(豊臣)秀吉への抗戦を呼び掛けたが、協力を得られなかった。さらさら越えは、秀吉に富山を攻められ、同年九月中旬に降伏、やがて切腹させられる成政の悲話の序章とされ、歌舞伎狂言や小説の題材になってきた。

 だが、萩原さんは「成政は浜松訪問後も家康と緊密に連携していた」と疑問を呈す。根拠は、成政が富山に帰った後の同年四月、武士の村上義長に宛てた書状の江戸期の写しだ。金沢市立玉川図書館で見つかり近年、注目を集めている。

 義長は、信州の本拠地を失った村上氏が豪族として復帰できるよう、成政に家康への仲介を求めていた、との見方がある。萩原さんは、成政が義長に「ご身上の儀(中略)、家康へつぶさに申し入れ候」と記し、家康への取りなしを報告していることに着目した。

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 義長宛て書状との関連で、家康が同年六月下旬、成政側に宛て「旧冬、成政お越し候以後、たびたびの芳心、喜悦に候」と伝えた書状の後世の写しを重視。

 「芳心」は「親切な心」という意味だが、萩原さんは成政側からの書状を指すと解釈。家康は成政が富山に帰った後も書状をよこすことを喜んだとみて、親交を示す史料だと考えた。

 家康の上田攻めは、昌幸が同年七月頃に家康に謀反し、越後(新潟県)の上杉景勝に従ったことへの懲罰だとされてきた。だが萩原さんは、家康が上田を攻めた同年九月ごろは秀吉の富山攻めの時期と重なり、成政との連絡役の家臣が上田攻めの指揮官だった点も重視。「景勝は秀吉と連携して成政を圧迫していた。景勝に従う真田への攻撃は、成政への支援の意味合いがあった。家康と成政の連携は秀吉には脅威だったはず。成政の浜松訪問は家康との協力を確認する意味で成果があった」と話している。

(林啓太)

◆成政支援の狙い疑問

 NHK大河ドラマ「真田丸」で時代考証を担当した丸島和洋・慶応大非常勤講師(戦国大名論)の話 第1次上田合戦が起きたのは、真田昌幸が徳川家康から上杉景勝に寝返った直後。謀反した昌幸を懲らしめるため派兵したとみるべきで、佐々成政を軍事支援する狙いがあったかどうかは疑問だ。ただ通説と異なり、成政が浜松を訪問した後も家康と連携していたという解釈は妥当だと思う。

 <第1次上田合戦> 上田城主の真田昌幸が1585年9月、徳川家康が派遣した大軍を小勢で破った戦い。徳川勢を再度破った第2次上田合戦(1600年)とともに、真田の武名が語り継がれるきっかけとなった。昌幸の次男信繁(幸村)の初陣だったとの説もある。

 <佐々成政> 尾張国比良村(現名古屋市西区)の土豪の子に生まれ、織田信長の馬廻(うままわり=親衛隊)として頭角を現し、富山城主に抜てきされた。信長の死後、羽柴秀吉に屈服し、隈本(熊本)城主に取り立てられたが、そこでの失政の責任を問われ1588年に切腹させられた。

 

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