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しずおか蹴球伝 王国の歩み

紡がれる闘魂 清水東(6) 勝負の怖さ知り成長

清水東高時代の思い出を語る山西尊裕さん=浜松市内で

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 小学校一年の時、父親の仕事の都合で、御殿場市から旧清水市に引っ越した山西尊裕(39)は、慣れない環境の中、学校に行きたがらなかった。しかし、二年になってサッカーと出会い、たちまちそのとりことなった。「自分にとっては運命の出会い。サッカーの楽しさにどっぷりとはまり、不登校どころか、学校が大好きになった」と笑う。

 最初はフォワード。貴重な左利きだったこともあり、清水の小学生の選抜チーム、清水FCでも活躍した。小学生のころから、清水東高にあこがれ、清水東以外への進学は考えなかった。入学してすぐに、守備的MFや左サイドバックのレギュラーとなった。

 一九九二年、二連覇がかかった宮崎での全国高校総体(インターハイ)。一年生の山西は勝負の怖さを思い知らされた。順調に勝ち進んだ準決勝の前日。一日オフとなり、少し気持ちが緩んだ。準決勝の徳島市立戦は0−0で延長戦に突入。延長で互いに1点ずつ入れて決着がつかず、PK戦で敗れた。「その後の僕のサッカー人生で、油断大敵が教訓となった」という。

 清水東での全国大会出場はこの一回だけ。時は、県高校サッカーの黄金期。県大会は簡単には勝ち抜けなかった。しかし、山西は清水東の「自分たちで考え、行動する主体的なサッカー」で大きく成長していった。身長一七三センチとサッカー選手としては小柄。「パワーで劣るならば、技術を磨け」とキックの種類を増やした。一年から三年まで、国体少年男子に選出され、三年連続優勝という快挙を味わった。

 高校卒業を控え、Jリーグの複数のクラブが山西の獲得に動いた。山西は簡単にレギュラーを獲得できるクラブは選択しなかった。ポジションが確約されていなくても自分が成長できるクラブとして、ジュビロ磐田を選んだ。「自分の性格は変わっていると思う。いくつかの選択肢があった時、あえて難しいところを選択する。そこで努力して道を切り開きたかったから」という。

 九五年磐田入団。最初の二年間はサテライト(二軍)暮らしだったが、当時のハンス・オフト監督から基本を徹底的に教え込まれた。三年目になりルイス・フェリペ監督が左サイドバックとして起用。その後、磐田黄金期のディフェンスラインの一角を支える。清水エスパルスを経て引退し、現在は常葉大浜松キャンパスのヘッドコーチとして、大学日本一を目指している。

=文中敬称略

(「紡がれる闘魂 清水東」終わり)

 

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